●たまたま直前記事に関連して、先日やっていたチャットの抜粋([]部は文脈を補う加筆)
私は、抵抗値に興味があってね。漫画・アニメの表象技法に対する抵抗値。新井英樹・山本直樹の不快さなんて、書こうと思えばいかにも心地よくできるものを、抵抗値あるように、摩擦あるように書いてるんだろうね。[私はこの二人の作品の構図が興味がないことが多いし、90年代論壇や社会学言説に影響されすぎだと思うけど。山本は「僕らはみんな生きている」ぐらいしか面白くない] で、描写、個々の人物、振る舞い、という見えやすい抵抗値ではなく、歴史や政治的風土みたいな抵抗値もあるでしょう。勇午をなんとなく読み返してたのは、そういう抵抗値が出てこざるを得ない素材になるからだね。どこまでやってるかというとちょっと微妙だけど。まあ、ハイナー・ミュラーや記録映画ともつながる問題系だけど、政治劇がはらむ歴史的抵抗値ってのもありだろうと。その意味では、興行と抵抗値の一致、しかも人物に負荷される齟齬感・不快さのようじゃない追い込み方もあるだろうと思ってね。
勇午とか、「こりゃ、描く側も勉強したり取材しないと書けんよなあ」ってのを、何がしかの形で抵抗値として抱え持ってる制作手順にしているのを、オタク的なネタ読解に対する抑止策として興味もってるって感じかな。ネタ読解しようと思えば、何でもそう読むことも可能なんだろうけど、それを言ってもしょうがないし。たとえば岩明均はこの意味で割と良くて、何気ない齟齬を描くのがうまいね。戦国武将と戦後を書いた「雪の峠」なんて結構いい。あの築城計画の短編は、戦国の世代、次の世代、の間の、世界認識の齟齬なんだよね。戦国の頃に生まれ育った家臣は、生き延びに苦しむ。戦以外のことを覚えなきゃいけない。そういうのを扱うのは面白い。ヒストリエはどうなるかかなり不安だけど。
良くない作品について語るときに心がけるべきは、作品を翻訳して、一気に作り変えて、これこれの方向に持っていけばよかったんだ、という言説にすることだね。そうなると、つまらない作品について語ることほど、力量が問われるものはない。翻訳としての作品、じゃなくて、こっちが作品の素材やそのモチーフの可能性を勝手に翻訳して、作り変えて、こうなることもできた、という像を見せるという。こういうのは批評家はあまりやってこなかったけど、この手が一番作家連中を黙らせることができる。批評、批評的言説に慣れきった悪しき人には「いいところ探し」をやる悪習がある。可能性と限界、の両方を見ない。いいところといっても、どの程度模索されていたのか、どこまで展開できるのか、限界は何か、を言わずに、理論的言説にしてしまって、はい、完了、となるためのいいところポイントとその言説のための素材渉猟になってしまう。結果、作品と言説との関係が相互に甘いものになる。漠然といいところ探しをするような言説は、作品もまた、都合がいいから求めているし、言説側も楽なんだ。お互いの役割分担みたいなものが妙に馴れ合えるんだよね。よって、言説というかたちであれ、ある程度の構成的な引き伸ばし、展開をすることによって、奇妙なもたれあいを消したほうがいい。ある程度自律的なブロックを作れば、そこで切ることができる。80-90年代批評の風習の一つが、相互甘えあいだった。批評は「イメージ」喚起的な修辞に頼り(浅田)、語り手の仕草によるスタイルにおける回収で逃げ(浅田)、単に脱我的にシーンを抽出し(蓮実)、見事に甘えるポジションを確保していた。そして、その振る舞いが、実に文壇内の風習、要請と一致していた、って思うね。当人の意識はともあれ。
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60年代にあった、デモ集会みたいなかたちでの討議集会についてはどう思えるか。本を出す、[書籍の価格決定プロセスや入手条件、製本技術の個人所有によって]ネットで格安で正規入手ができた、やったー書籍が格安になりました。……しかし、これだけでは文化は生じないよね。考えるに、著者のトークショーや講演とは舞台なんだよね。本を再現前させる舞台。80年代以降の批評家がトークをよくやっていた、という風土は、その1点についてのみ高く評価してる。本を本の中でやるんじゃなくて、舞台的に場においてやっちゃう。こういうのを、より展開させるとなると、さらには、小売店でのトークみたいな枠をはずして非営利的に考えると、やっぱり60年代の討議集会みたいになるのかな、と。(まあ、小売は小売で、電気屋みたいに安い液晶モニタ使って、トーク映像を流すぐらいの売り方をしてもいいと思ってるけど。まだなされていない小売内部での模索は案外いくらでもある)。
重要なのは小売じゃない場所での問題だと。それでなくとも、日本は小売・版元主導で全部進んで、5年経ったらはいそれまでよ、みたいに流れていくわけで、そうじゃない防波堤を置くには、やっぱ非営利のそういう空間の産出だろう。これはいわば、「大学」の理念と似ていて、経済や長期性のもとで非営利的に存在しうる、かつ、階級差や差異が隠蔽されない装置になる。ニコニコや2chみたいなガキの遊び場が増えても意味がない。非営利的な大学的な、かつ偏在している、どことなく公共的で、階級差をはらむ空間がほしい。
たとえば、デリダを動画一本でやったらどうなるか、というのはそういうトークショー的な意味でね。単にデリダ入門書みたいなことじゃないものが面白いだろうと。デリダという名、デリダが使う概念をその語句のままに使う必要もないし、全く触れないにもかかわらず、「いや、これは同時にデリダでもある」と言えるようなものを出すことできるはず。本を舞台に再現前させる場所として、動画を使うって手も、一応手ではある、という発想だったんだ。まあ、ニコニコじゃかえって難しいけどさ。消費を無視して、やってみよう、というのは制作のときの軸ではあるけど、消費自体が次なる読解を牽制する力だから、ニコニコの動画消費、コメント風習はそれ自体、読解に対する牽制力になってしまう。
私は理論的言説からデプラスマンする目的をもたずに本を読んでる人間はどことなく信用しないところがある。デプラスマンといっても、共有する知識のない相手に即興で理論的言説の核心点を語ってみることもそうだし、作品構造へ無理矢理移行させてみるのもそうだし、各固有語法を横断する際にはつねにつきまとってくるものになる。これは作品を作ることと同じだけど、でも、作品って、人が思うほどに固有の領域だろうか。たとえば、近代文学における小説なんて、世俗的な事実、ニュースからの翻訳だよね。翻訳しつつ、関連させて書いてる。いわゆる小説技法とか、虚構世界の自律なんてものは、何がしかの効果のために要請されていたはずで、それ自体を目的論的に必要としていたはずでもないだろう。で、虚構世界の自律が、世俗や社会における諸事実、構造の翻訳の面を阻むのであれば、むしろ邪魔に成ってくるはずだし、いわゆる長い作品もまた、同じ理由で必要なくなってくるかもしれない。したがって、小説の持っていた可能性を最大限に引き出そうと考えるならば、今度は小説の形式である必要もなくなってくるはずだろうと。そうした、過渡的な形態として小説があったとみなせば、5分の動画で、何がしかの社会の翻訳をやれば、それだって作品だし小説的なものたりうるだろうと。このとき、理論的言説との差異は、おそらく構成素材が、具体的か言説的効率のある概念か、になるのではないか。いや、この場合、いわゆる映画で考える必要はないけどね。シネトラクトみたいなものでもいいし、新ドイツ零年の数分でもいい。子供が宙返りして、自転車乗ってるのにコメントを足して、「これが~~である」とか、いきなり言説と具体的なものをめりこませるのも手だろう。(というか、ゴダールはそんなんばっかりなんだが)。
要するに、世界の、主客などの、構造を翻訳しつつ、何らかの具体的素材の変奏で成立させ、ある程度の構成がとれれば、作品としていけるんじゃないかね。したがって、特に身構えることもないし、子供に童話を聞かせるような心積もりで、たぶんやれるはずだと。心理的には、「言説の彼岸」のようにとらえる必要はなくて、デプラスマンと具体的な素材をきっかけにする発想さえあれば、ここでいう作品は、そんなに遠いものではないと。私はあまり面白く感じてはいないがネットのジョーク集や怪談集をよく読む。それは、「短さ」と構成の基底に関する興味からで、おそらく、ネタ、ジョークとは違った意味で、ジョークみたいなものになると思うけどね。そういう作品は。思い出すと、ゴダールの作品も冗談みたいなものばかりなんだけど。
こういう視角から考えてみると、ある意味で、ゴダールの視野をものにできるって思っていてね。ゴダールの作品見てると、遂行されたメモ帳、みたいに感じるんだよね。それは、形式の完成を目指す途上というより、もっとこう、インスタントに場ができればそれでいいや、という目で見れば、むしろ可能性として考えられるんじゃないかなとね。私は、ストローブとちがってゴダールの作品には作品内に翻訳のようなものがあまりよく見えてこない、ってことで批判的だったんだけど、ゴダールの制作スタイル自体を、翻訳のようなあり方のサンプルだと考えると、いけるんじゃないかと。ゴダールに関しては、的確な批判や、ゴダールにおける欠落を適切に突付くことよりも、面白くゴダールを翻訳する、というときに、「おそらくゴダールではここまでしかいけない」というのが、暗に出てくればいいんじゃないかと思う。結果的に面白い批判に見えるような展開になればいい。
私がゴダールをもっとも継承してるのは、簡便なでっちあげこそが可能性だ、って点ぐらいだね。その先を見てみたいというのがあって、その場合、いわゆる作品固有の領域なんか無視すればいいと思うんだ。作品に、もし固有なものがあるとすれば、作品形式とか様式、手法の固有性じゃなくて、作品と読解がつくってしまう、空間のブロックみたいなものなんじゃないかとね。これは、言説では作りにくい固有の場所だし、言説ではない構成言語で作るのは、そういう場の操作という意味でも、面白い結果になるんじゃないかなと。あと、言説だと、何がしかの言説上の系譜や概念への責任がどうしてもあるけど、作品って、一定関係ないんだよね。いえ、ここには世界全部があります、なんてことをぬけぬけと言っていいし、作品で使ってる具体的素材内部において、そのrepresenceにおいて責任というか、ケリをつければ、一応、それでなんとかなる。構成素材として、理論的言説じゃないがゆえに、飛躍できそうっていうことだね。冗談の効果とにてるけど。
で、私はむしろ、舞台として考え直すと同時に、そもそも文学は社会の素材を引用してたんだから、なんか持ってきて舞台にかければ、原則的には、じゃあ作品になるじゃん、と。この構成原理でいけば、もう何でもいけるな、と。したがって、象徴資本のある文化、60年代的討議集会、簡便な舞台 という三位一体を思ったのだ。
と同時に、ここでは原則としてはそうなるし、ナンシーじみてくるんだけど、諸媒体においてそれぞれ固有なものと不可能なものとの葛藤があり、したがって、その齟齬において、齟齬を分有しうる。だから、映画は映画の固有性と不可能性を引きずるんだけど、それゆえ、ある種、全称的なものに、否定的に抵触する。この構図は他の諸媒体においても近似的なプロセスが出てくるが、しかし、その抵触経路において星座のごとき差が出てくる。だから原則としての「なんでも作品化しうる」といっても、それとしては存在しないし、不可能なものだろう。
そこでフィクションというものが立ち上がる必要がある。それは、作品形式としてのフィクションだとか話法の手法だとか、ドラマということじゃなくて、一種の謎を立ち上げてしまうようなものが必要。それこそが信を産出するような謎が。「素材内部において、そのrepresenceにおいて責任というか、ケリをつければ」とか「何らかの具体的素材の変奏で成立させ」っていうのはそういう感じのことで、ゴダール『映画史』にあってはまさに「映画だけが」は、何度も回帰して変奏されているでしょう。カタがついていないような、不気味な変奏を行う。作品の構成というときに私が考えるのは、そういうものをいかに立ち上げるかってことだね。やっぱり謎が必要なんだな。ただ、この種の作品構成の問題は、まだ私も考えが整理できてない、難しい問題だね。言説からの単純なコンバートがありうるものになっても困るし。かといって、言説にとっての彼岸のような、そういうものにも思いたくないのだ。言説こそがそもそもそういうものだから。まあ、原則としては、あんまり深く考えないで、いい加減にでも、できてしまえるはずなのだ、と思ってるんだけどね。
私たちは、こうやってチャットで会話をしているし、またネットでいろんなおしゃべりを見ているでしょう。書き文字でね。こんな異様なことってないよね。近代文学的には。むしろ、近代文学の形式という身体、器は、あの書き文字・口頭言語・活字媒体の編成のもとで成立し、かつ長大化したのであって、こうも途切れ途切れのネットの書き文字で、ネットで展開するときに、いい加減な作品構成のやり方があってもおかしくないだろう、と。貧しい手法、貧しい道具、貧しい環境で、コンセプトと構成だけで作れてしまう、というのはありじゃないかな、と。
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- ttt
- チャット部屋: http://digicha.jp/tel_que/chat_s_view.html 連絡先: ceintureverte_at_gmail.com(_at_を@に置き換える) 「本棚写真/本好きへの100の質問回答」が一番自己紹介になってるのだと気づいた。
2008年8月20日水曜日
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