(投稿:8.30、加筆:9.1)
『勇午』では字義通りの依頼遂行と根本的問題への対処が分けられている。ただし、この場合、a.字義通りの依頼、b.依頼者の意図、c.根本的問題への対処、の区別が大事で、しかもc.は勇午自身が独自に、依頼引き受けの時点では明確に語られることなく選択されている。a/bに対してcが独自の運きをするのがいわばドラマを形成しているところがある。この場合、c.は勇午の意図でも言うべき感じになる。交渉人を素材にした物語が他にどれだけあるのか知らないけど、「勇午」の特色ってこのあたりだと思う。
ロシア:
資金凍結というかたちで、使用法の保留・先送りではあれ、遺産を真にロシアのために使おう、という問題の前進(c達成)に。激怒し地団駄を踏むに違いない(bは思いっきり裏切られている)アンドレイが最後に出てこないのが惜しいぐらい。
インド:
ヒンドゥーとイスラムの和解(c)に向けた歩みに向かって、火種の着火を一つ防いだ、しかし和解の未来はまだ遠い、ミシュラのような人に期待しよう…というものだね。解決には長期を要するが、その一歩となることを祈ろう、という勇午の交渉の成功パターン。
LA編は契約遂行に関して他よりちょっと複雑で、マケインが言うタフトの依頼は「スーザンを無事に連れ戻せ」(17巻p.184)、タフト「連れ戻してくれたまえ」(17巻p.218)となってて、bは鮮明なんだけどそいつもの勇午の「わかりました、~~を遂行するという意味でなら引き受けます」のくだりがないので、aが何なのか不鮮明。これは最後になってようやく暗に示される。
「既にスーザンがイベットを殺害したという確信を持っていた勇午は、スーザンの意思を考え彼女の幸せと人生を最重要視して(c1)スーザンが新しい人生を生きれるようにする(c2)という目的に向けて、死体というかたちではあれ連れ戻し(タフトの言葉だけで考えてa=bとする)、自分は殺人犯として刑を受ける」というふうになってる。さらに、「連れ戻す」前提には、マクスウェル・ビッカーズのオーナーである事実がある以上、自由の身にはなれないから、というのがあって、「オーナーではなくなってスーザンとしてではなく新たな人生を与えられれば、連れ戻す必要はない」ということも意味している。これはa(=b)ではないんだが、cの基礎となる。しかしマケインの必死の行動がスーザンの気持ちを変え、勇午の念頭にあったc1とc2が矛盾し、彼女は殺人犯として刑に服すことを選ぶ(c1)。その結果、勇午がとった「スーザンの新しい自身」(c2)のための行動がご破算になるわけだ。ただし、そうしたスーザンの意思は重んじることを勇午は選ぶ。LA編は、勇午は何のために動いているのかが謎のまま進行し、それが明かされるまでの話で、結構異色なんだ。
他方、パリ編は、aが明かされるまでに(21巻p.82)事態が動き回り、おそらく勇午自身のcは強いて言うなら「イスラエルとパレスチナの別の共存を目指す一歩となる」なのだろうと読者には推測がつくんだけど、aが謎だから勇午がなんでテロ活動に加わっているのかわからない、ということになる。aとcの見せ方の進行の点では、LA編とパリ編は真逆の構成になってて対照的。
上海編は、a=松木夫人が郭波心に会見し謝罪すること(誤解を解けるか否かは問わない)で、美々の依頼はa=母親の居所を突き止めること。それぞれ、廃人となった郭波心に会うことはでき、謝罪はできた(が、意思が伝わったかどうかも定かではない)、母親の死体の埋められた場所は突き止められた(が、依頼の念頭にあった、母親に悪態をつくとか謝罪させるといった意図の前提が、母親の死の経緯を知らされることで崩壊)。
変化球になってるのは、LA編と同じく勇午の意図(c)がどこにあるのかということ。最後の最後で暗示されるだけにとどまるのだが、「文革でおきた悲劇を経て、中国の人々の未来への一歩になる」とでもいう感じなのか、かなり晦渋なニュアンスになってる。殴ることで過去を清算できるのならば、殴りなさい、ってことなんだろうが、本来、依頼内容と勇午の意図からいって美々が真相を知る羽目になり、葛藤をする必然性がない(これは物語構成上必要だったのだろう)。あと、シャベル持って力いっぱい殴ったら死ぬだろうと思うんだが、殺すな=殴れ って意味で言ってるのか、殺してお前の好きなようにしろ=力いっぱい殴れ と言ってるのか、かなり多義的になってる。
これは、文革の悲劇を経て、世代間の格差、齟齬、葛藤が険しくなっている中国、というモチーフがまずあって、そこにダブルミーニングな「殴れ」という言葉を放り込む。そして、その言葉に対して美々が苛立ったような表情で返しているのが面白い。
偽であれ誇りえないものであれ過去はあり、過去から綺麗に生まれ育ったわけではない現在があり、現在はその過去に対して和解し清算しなくてはならないが、多義的で葛藤をはらんだものになる、という構図を、偽郭波心/美々という世代間対比のかたちにしたんだろうね。U.K.編のイングランドと北アイルランドのような対立を、中国国内の世代差、年代差でもって扱ってる。
対比的にここから考えると面白くなってくるのは、オーストリア編で、ザルツマンはある意味で、勇午みたいな役柄をやってる。彼はいわば和解と調停のための実践(キリストによる統合)をやろうとしたわけで、勇午との違いは、手法や調和の構想と、ノエミの人生への配慮でしかないのでは、というものになってる。U.K.編とオーストリア編は、勇午以外にも調停役が出現することによって、それぞれにとってのcとその手法が際立って対立しているところが面白いね。
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2008年8月30日土曜日
2008年8月20日水曜日
雑記15 翻訳としての作品と、作品の翻訳としての言説と、謎・余白として動くブロックの産出
●たまたま直前記事に関連して、先日やっていたチャットの抜粋([]部は文脈を補う加筆)
私は、抵抗値に興味があってね。漫画・アニメの表象技法に対する抵抗値。新井英樹・山本直樹の不快さなんて、書こうと思えばいかにも心地よくできるものを、抵抗値あるように、摩擦あるように書いてるんだろうね。[私はこの二人の作品の構図が興味がないことが多いし、90年代論壇や社会学言説に影響されすぎだと思うけど。山本は「僕らはみんな生きている」ぐらいしか面白くない] で、描写、個々の人物、振る舞い、という見えやすい抵抗値ではなく、歴史や政治的風土みたいな抵抗値もあるでしょう。勇午をなんとなく読み返してたのは、そういう抵抗値が出てこざるを得ない素材になるからだね。どこまでやってるかというとちょっと微妙だけど。まあ、ハイナー・ミュラーや記録映画ともつながる問題系だけど、政治劇がはらむ歴史的抵抗値ってのもありだろうと。その意味では、興行と抵抗値の一致、しかも人物に負荷される齟齬感・不快さのようじゃない追い込み方もあるだろうと思ってね。
勇午とか、「こりゃ、描く側も勉強したり取材しないと書けんよなあ」ってのを、何がしかの形で抵抗値として抱え持ってる制作手順にしているのを、オタク的なネタ読解に対する抑止策として興味もってるって感じかな。ネタ読解しようと思えば、何でもそう読むことも可能なんだろうけど、それを言ってもしょうがないし。たとえば岩明均はこの意味で割と良くて、何気ない齟齬を描くのがうまいね。戦国武将と戦後を書いた「雪の峠」なんて結構いい。あの築城計画の短編は、戦国の世代、次の世代、の間の、世界認識の齟齬なんだよね。戦国の頃に生まれ育った家臣は、生き延びに苦しむ。戦以外のことを覚えなきゃいけない。そういうのを扱うのは面白い。ヒストリエはどうなるかかなり不安だけど。
良くない作品について語るときに心がけるべきは、作品を翻訳して、一気に作り変えて、これこれの方向に持っていけばよかったんだ、という言説にすることだね。そうなると、つまらない作品について語ることほど、力量が問われるものはない。翻訳としての作品、じゃなくて、こっちが作品の素材やそのモチーフの可能性を勝手に翻訳して、作り変えて、こうなることもできた、という像を見せるという。こういうのは批評家はあまりやってこなかったけど、この手が一番作家連中を黙らせることができる。批評、批評的言説に慣れきった悪しき人には「いいところ探し」をやる悪習がある。可能性と限界、の両方を見ない。いいところといっても、どの程度模索されていたのか、どこまで展開できるのか、限界は何か、を言わずに、理論的言説にしてしまって、はい、完了、となるためのいいところポイントとその言説のための素材渉猟になってしまう。結果、作品と言説との関係が相互に甘いものになる。漠然といいところ探しをするような言説は、作品もまた、都合がいいから求めているし、言説側も楽なんだ。お互いの役割分担みたいなものが妙に馴れ合えるんだよね。よって、言説というかたちであれ、ある程度の構成的な引き伸ばし、展開をすることによって、奇妙なもたれあいを消したほうがいい。ある程度自律的なブロックを作れば、そこで切ることができる。80-90年代批評の風習の一つが、相互甘えあいだった。批評は「イメージ」喚起的な修辞に頼り(浅田)、語り手の仕草によるスタイルにおける回収で逃げ(浅田)、単に脱我的にシーンを抽出し(蓮実)、見事に甘えるポジションを確保していた。そして、その振る舞いが、実に文壇内の風習、要請と一致していた、って思うね。当人の意識はともあれ。
: : : :
60年代にあった、デモ集会みたいなかたちでの討議集会についてはどう思えるか。本を出す、[書籍の価格決定プロセスや入手条件、製本技術の個人所有によって]ネットで格安で正規入手ができた、やったー書籍が格安になりました。……しかし、これだけでは文化は生じないよね。考えるに、著者のトークショーや講演とは舞台なんだよね。本を再現前させる舞台。80年代以降の批評家がトークをよくやっていた、という風土は、その1点についてのみ高く評価してる。本を本の中でやるんじゃなくて、舞台的に場においてやっちゃう。こういうのを、より展開させるとなると、さらには、小売店でのトークみたいな枠をはずして非営利的に考えると、やっぱり60年代の討議集会みたいになるのかな、と。(まあ、小売は小売で、電気屋みたいに安い液晶モニタ使って、トーク映像を流すぐらいの売り方をしてもいいと思ってるけど。まだなされていない小売内部での模索は案外いくらでもある)。
重要なのは小売じゃない場所での問題だと。それでなくとも、日本は小売・版元主導で全部進んで、5年経ったらはいそれまでよ、みたいに流れていくわけで、そうじゃない防波堤を置くには、やっぱ非営利のそういう空間の産出だろう。これはいわば、「大学」の理念と似ていて、経済や長期性のもとで非営利的に存在しうる、かつ、階級差や差異が隠蔽されない装置になる。ニコニコや2chみたいなガキの遊び場が増えても意味がない。非営利的な大学的な、かつ偏在している、どことなく公共的で、階級差をはらむ空間がほしい。
たとえば、デリダを動画一本でやったらどうなるか、というのはそういうトークショー的な意味でね。単にデリダ入門書みたいなことじゃないものが面白いだろうと。デリダという名、デリダが使う概念をその語句のままに使う必要もないし、全く触れないにもかかわらず、「いや、これは同時にデリダでもある」と言えるようなものを出すことできるはず。本を舞台に再現前させる場所として、動画を使うって手も、一応手ではある、という発想だったんだ。まあ、ニコニコじゃかえって難しいけどさ。消費を無視して、やってみよう、というのは制作のときの軸ではあるけど、消費自体が次なる読解を牽制する力だから、ニコニコの動画消費、コメント風習はそれ自体、読解に対する牽制力になってしまう。
私は理論的言説からデプラスマンする目的をもたずに本を読んでる人間はどことなく信用しないところがある。デプラスマンといっても、共有する知識のない相手に即興で理論的言説の核心点を語ってみることもそうだし、作品構造へ無理矢理移行させてみるのもそうだし、各固有語法を横断する際にはつねにつきまとってくるものになる。これは作品を作ることと同じだけど、でも、作品って、人が思うほどに固有の領域だろうか。たとえば、近代文学における小説なんて、世俗的な事実、ニュースからの翻訳だよね。翻訳しつつ、関連させて書いてる。いわゆる小説技法とか、虚構世界の自律なんてものは、何がしかの効果のために要請されていたはずで、それ自体を目的論的に必要としていたはずでもないだろう。で、虚構世界の自律が、世俗や社会における諸事実、構造の翻訳の面を阻むのであれば、むしろ邪魔に成ってくるはずだし、いわゆる長い作品もまた、同じ理由で必要なくなってくるかもしれない。したがって、小説の持っていた可能性を最大限に引き出そうと考えるならば、今度は小説の形式である必要もなくなってくるはずだろうと。そうした、過渡的な形態として小説があったとみなせば、5分の動画で、何がしかの社会の翻訳をやれば、それだって作品だし小説的なものたりうるだろうと。このとき、理論的言説との差異は、おそらく構成素材が、具体的か言説的効率のある概念か、になるのではないか。いや、この場合、いわゆる映画で考える必要はないけどね。シネトラクトみたいなものでもいいし、新ドイツ零年の数分でもいい。子供が宙返りして、自転車乗ってるのにコメントを足して、「これが~~である」とか、いきなり言説と具体的なものをめりこませるのも手だろう。(というか、ゴダールはそんなんばっかりなんだが)。
要するに、世界の、主客などの、構造を翻訳しつつ、何らかの具体的素材の変奏で成立させ、ある程度の構成がとれれば、作品としていけるんじゃないかね。したがって、特に身構えることもないし、子供に童話を聞かせるような心積もりで、たぶんやれるはずだと。心理的には、「言説の彼岸」のようにとらえる必要はなくて、デプラスマンと具体的な素材をきっかけにする発想さえあれば、ここでいう作品は、そんなに遠いものではないと。私はあまり面白く感じてはいないがネットのジョーク集や怪談集をよく読む。それは、「短さ」と構成の基底に関する興味からで、おそらく、ネタ、ジョークとは違った意味で、ジョークみたいなものになると思うけどね。そういう作品は。思い出すと、ゴダールの作品も冗談みたいなものばかりなんだけど。
こういう視角から考えてみると、ある意味で、ゴダールの視野をものにできるって思っていてね。ゴダールの作品見てると、遂行されたメモ帳、みたいに感じるんだよね。それは、形式の完成を目指す途上というより、もっとこう、インスタントに場ができればそれでいいや、という目で見れば、むしろ可能性として考えられるんじゃないかなとね。私は、ストローブとちがってゴダールの作品には作品内に翻訳のようなものがあまりよく見えてこない、ってことで批判的だったんだけど、ゴダールの制作スタイル自体を、翻訳のようなあり方のサンプルだと考えると、いけるんじゃないかと。ゴダールに関しては、的確な批判や、ゴダールにおける欠落を適切に突付くことよりも、面白くゴダールを翻訳する、というときに、「おそらくゴダールではここまでしかいけない」というのが、暗に出てくればいいんじゃないかと思う。結果的に面白い批判に見えるような展開になればいい。
私がゴダールをもっとも継承してるのは、簡便なでっちあげこそが可能性だ、って点ぐらいだね。その先を見てみたいというのがあって、その場合、いわゆる作品固有の領域なんか無視すればいいと思うんだ。作品に、もし固有なものがあるとすれば、作品形式とか様式、手法の固有性じゃなくて、作品と読解がつくってしまう、空間のブロックみたいなものなんじゃないかとね。これは、言説では作りにくい固有の場所だし、言説ではない構成言語で作るのは、そういう場の操作という意味でも、面白い結果になるんじゃないかなと。あと、言説だと、何がしかの言説上の系譜や概念への責任がどうしてもあるけど、作品って、一定関係ないんだよね。いえ、ここには世界全部があります、なんてことをぬけぬけと言っていいし、作品で使ってる具体的素材内部において、そのrepresenceにおいて責任というか、ケリをつければ、一応、それでなんとかなる。構成素材として、理論的言説じゃないがゆえに、飛躍できそうっていうことだね。冗談の効果とにてるけど。
で、私はむしろ、舞台として考え直すと同時に、そもそも文学は社会の素材を引用してたんだから、なんか持ってきて舞台にかければ、原則的には、じゃあ作品になるじゃん、と。この構成原理でいけば、もう何でもいけるな、と。したがって、象徴資本のある文化、60年代的討議集会、簡便な舞台 という三位一体を思ったのだ。
と同時に、ここでは原則としてはそうなるし、ナンシーじみてくるんだけど、諸媒体においてそれぞれ固有なものと不可能なものとの葛藤があり、したがって、その齟齬において、齟齬を分有しうる。だから、映画は映画の固有性と不可能性を引きずるんだけど、それゆえ、ある種、全称的なものに、否定的に抵触する。この構図は他の諸媒体においても近似的なプロセスが出てくるが、しかし、その抵触経路において星座のごとき差が出てくる。だから原則としての「なんでも作品化しうる」といっても、それとしては存在しないし、不可能なものだろう。
そこでフィクションというものが立ち上がる必要がある。それは、作品形式としてのフィクションだとか話法の手法だとか、ドラマということじゃなくて、一種の謎を立ち上げてしまうようなものが必要。それこそが信を産出するような謎が。「素材内部において、そのrepresenceにおいて責任というか、ケリをつければ」とか「何らかの具体的素材の変奏で成立させ」っていうのはそういう感じのことで、ゴダール『映画史』にあってはまさに「映画だけが」は、何度も回帰して変奏されているでしょう。カタがついていないような、不気味な変奏を行う。作品の構成というときに私が考えるのは、そういうものをいかに立ち上げるかってことだね。やっぱり謎が必要なんだな。ただ、この種の作品構成の問題は、まだ私も考えが整理できてない、難しい問題だね。言説からの単純なコンバートがありうるものになっても困るし。かといって、言説にとっての彼岸のような、そういうものにも思いたくないのだ。言説こそがそもそもそういうものだから。まあ、原則としては、あんまり深く考えないで、いい加減にでも、できてしまえるはずなのだ、と思ってるんだけどね。
私たちは、こうやってチャットで会話をしているし、またネットでいろんなおしゃべりを見ているでしょう。書き文字でね。こんな異様なことってないよね。近代文学的には。むしろ、近代文学の形式という身体、器は、あの書き文字・口頭言語・活字媒体の編成のもとで成立し、かつ長大化したのであって、こうも途切れ途切れのネットの書き文字で、ネットで展開するときに、いい加減な作品構成のやり方があってもおかしくないだろう、と。貧しい手法、貧しい道具、貧しい環境で、コンセプトと構成だけで作れてしまう、というのはありじゃないかな、と。
私は、抵抗値に興味があってね。漫画・アニメの表象技法に対する抵抗値。新井英樹・山本直樹の不快さなんて、書こうと思えばいかにも心地よくできるものを、抵抗値あるように、摩擦あるように書いてるんだろうね。[私はこの二人の作品の構図が興味がないことが多いし、90年代論壇や社会学言説に影響されすぎだと思うけど。山本は「僕らはみんな生きている」ぐらいしか面白くない] で、描写、個々の人物、振る舞い、という見えやすい抵抗値ではなく、歴史や政治的風土みたいな抵抗値もあるでしょう。勇午をなんとなく読み返してたのは、そういう抵抗値が出てこざるを得ない素材になるからだね。どこまでやってるかというとちょっと微妙だけど。まあ、ハイナー・ミュラーや記録映画ともつながる問題系だけど、政治劇がはらむ歴史的抵抗値ってのもありだろうと。その意味では、興行と抵抗値の一致、しかも人物に負荷される齟齬感・不快さのようじゃない追い込み方もあるだろうと思ってね。
勇午とか、「こりゃ、描く側も勉強したり取材しないと書けんよなあ」ってのを、何がしかの形で抵抗値として抱え持ってる制作手順にしているのを、オタク的なネタ読解に対する抑止策として興味もってるって感じかな。ネタ読解しようと思えば、何でもそう読むことも可能なんだろうけど、それを言ってもしょうがないし。たとえば岩明均はこの意味で割と良くて、何気ない齟齬を描くのがうまいね。戦国武将と戦後を書いた「雪の峠」なんて結構いい。あの築城計画の短編は、戦国の世代、次の世代、の間の、世界認識の齟齬なんだよね。戦国の頃に生まれ育った家臣は、生き延びに苦しむ。戦以外のことを覚えなきゃいけない。そういうのを扱うのは面白い。ヒストリエはどうなるかかなり不安だけど。
良くない作品について語るときに心がけるべきは、作品を翻訳して、一気に作り変えて、これこれの方向に持っていけばよかったんだ、という言説にすることだね。そうなると、つまらない作品について語ることほど、力量が問われるものはない。翻訳としての作品、じゃなくて、こっちが作品の素材やそのモチーフの可能性を勝手に翻訳して、作り変えて、こうなることもできた、という像を見せるという。こういうのは批評家はあまりやってこなかったけど、この手が一番作家連中を黙らせることができる。批評、批評的言説に慣れきった悪しき人には「いいところ探し」をやる悪習がある。可能性と限界、の両方を見ない。いいところといっても、どの程度模索されていたのか、どこまで展開できるのか、限界は何か、を言わずに、理論的言説にしてしまって、はい、完了、となるためのいいところポイントとその言説のための素材渉猟になってしまう。結果、作品と言説との関係が相互に甘いものになる。漠然といいところ探しをするような言説は、作品もまた、都合がいいから求めているし、言説側も楽なんだ。お互いの役割分担みたいなものが妙に馴れ合えるんだよね。よって、言説というかたちであれ、ある程度の構成的な引き伸ばし、展開をすることによって、奇妙なもたれあいを消したほうがいい。ある程度自律的なブロックを作れば、そこで切ることができる。80-90年代批評の風習の一つが、相互甘えあいだった。批評は「イメージ」喚起的な修辞に頼り(浅田)、語り手の仕草によるスタイルにおける回収で逃げ(浅田)、単に脱我的にシーンを抽出し(蓮実)、見事に甘えるポジションを確保していた。そして、その振る舞いが、実に文壇内の風習、要請と一致していた、って思うね。当人の意識はともあれ。
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60年代にあった、デモ集会みたいなかたちでの討議集会についてはどう思えるか。本を出す、[書籍の価格決定プロセスや入手条件、製本技術の個人所有によって]ネットで格安で正規入手ができた、やったー書籍が格安になりました。……しかし、これだけでは文化は生じないよね。考えるに、著者のトークショーや講演とは舞台なんだよね。本を再現前させる舞台。80年代以降の批評家がトークをよくやっていた、という風土は、その1点についてのみ高く評価してる。本を本の中でやるんじゃなくて、舞台的に場においてやっちゃう。こういうのを、より展開させるとなると、さらには、小売店でのトークみたいな枠をはずして非営利的に考えると、やっぱり60年代の討議集会みたいになるのかな、と。(まあ、小売は小売で、電気屋みたいに安い液晶モニタ使って、トーク映像を流すぐらいの売り方をしてもいいと思ってるけど。まだなされていない小売内部での模索は案外いくらでもある)。
重要なのは小売じゃない場所での問題だと。それでなくとも、日本は小売・版元主導で全部進んで、5年経ったらはいそれまでよ、みたいに流れていくわけで、そうじゃない防波堤を置くには、やっぱ非営利のそういう空間の産出だろう。これはいわば、「大学」の理念と似ていて、経済や長期性のもとで非営利的に存在しうる、かつ、階級差や差異が隠蔽されない装置になる。ニコニコや2chみたいなガキの遊び場が増えても意味がない。非営利的な大学的な、かつ偏在している、どことなく公共的で、階級差をはらむ空間がほしい。
たとえば、デリダを動画一本でやったらどうなるか、というのはそういうトークショー的な意味でね。単にデリダ入門書みたいなことじゃないものが面白いだろうと。デリダという名、デリダが使う概念をその語句のままに使う必要もないし、全く触れないにもかかわらず、「いや、これは同時にデリダでもある」と言えるようなものを出すことできるはず。本を舞台に再現前させる場所として、動画を使うって手も、一応手ではある、という発想だったんだ。まあ、ニコニコじゃかえって難しいけどさ。消費を無視して、やってみよう、というのは制作のときの軸ではあるけど、消費自体が次なる読解を牽制する力だから、ニコニコの動画消費、コメント風習はそれ自体、読解に対する牽制力になってしまう。
私は理論的言説からデプラスマンする目的をもたずに本を読んでる人間はどことなく信用しないところがある。デプラスマンといっても、共有する知識のない相手に即興で理論的言説の核心点を語ってみることもそうだし、作品構造へ無理矢理移行させてみるのもそうだし、各固有語法を横断する際にはつねにつきまとってくるものになる。これは作品を作ることと同じだけど、でも、作品って、人が思うほどに固有の領域だろうか。たとえば、近代文学における小説なんて、世俗的な事実、ニュースからの翻訳だよね。翻訳しつつ、関連させて書いてる。いわゆる小説技法とか、虚構世界の自律なんてものは、何がしかの効果のために要請されていたはずで、それ自体を目的論的に必要としていたはずでもないだろう。で、虚構世界の自律が、世俗や社会における諸事実、構造の翻訳の面を阻むのであれば、むしろ邪魔に成ってくるはずだし、いわゆる長い作品もまた、同じ理由で必要なくなってくるかもしれない。したがって、小説の持っていた可能性を最大限に引き出そうと考えるならば、今度は小説の形式である必要もなくなってくるはずだろうと。そうした、過渡的な形態として小説があったとみなせば、5分の動画で、何がしかの社会の翻訳をやれば、それだって作品だし小説的なものたりうるだろうと。このとき、理論的言説との差異は、おそらく構成素材が、具体的か言説的効率のある概念か、になるのではないか。いや、この場合、いわゆる映画で考える必要はないけどね。シネトラクトみたいなものでもいいし、新ドイツ零年の数分でもいい。子供が宙返りして、自転車乗ってるのにコメントを足して、「これが~~である」とか、いきなり言説と具体的なものをめりこませるのも手だろう。(というか、ゴダールはそんなんばっかりなんだが)。
要するに、世界の、主客などの、構造を翻訳しつつ、何らかの具体的素材の変奏で成立させ、ある程度の構成がとれれば、作品としていけるんじゃないかね。したがって、特に身構えることもないし、子供に童話を聞かせるような心積もりで、たぶんやれるはずだと。心理的には、「言説の彼岸」のようにとらえる必要はなくて、デプラスマンと具体的な素材をきっかけにする発想さえあれば、ここでいう作品は、そんなに遠いものではないと。私はあまり面白く感じてはいないがネットのジョーク集や怪談集をよく読む。それは、「短さ」と構成の基底に関する興味からで、おそらく、ネタ、ジョークとは違った意味で、ジョークみたいなものになると思うけどね。そういう作品は。思い出すと、ゴダールの作品も冗談みたいなものばかりなんだけど。
こういう視角から考えてみると、ある意味で、ゴダールの視野をものにできるって思っていてね。ゴダールの作品見てると、遂行されたメモ帳、みたいに感じるんだよね。それは、形式の完成を目指す途上というより、もっとこう、インスタントに場ができればそれでいいや、という目で見れば、むしろ可能性として考えられるんじゃないかなとね。私は、ストローブとちがってゴダールの作品には作品内に翻訳のようなものがあまりよく見えてこない、ってことで批判的だったんだけど、ゴダールの制作スタイル自体を、翻訳のようなあり方のサンプルだと考えると、いけるんじゃないかと。ゴダールに関しては、的確な批判や、ゴダールにおける欠落を適切に突付くことよりも、面白くゴダールを翻訳する、というときに、「おそらくゴダールではここまでしかいけない」というのが、暗に出てくればいいんじゃないかと思う。結果的に面白い批判に見えるような展開になればいい。
私がゴダールをもっとも継承してるのは、簡便なでっちあげこそが可能性だ、って点ぐらいだね。その先を見てみたいというのがあって、その場合、いわゆる作品固有の領域なんか無視すればいいと思うんだ。作品に、もし固有なものがあるとすれば、作品形式とか様式、手法の固有性じゃなくて、作品と読解がつくってしまう、空間のブロックみたいなものなんじゃないかとね。これは、言説では作りにくい固有の場所だし、言説ではない構成言語で作るのは、そういう場の操作という意味でも、面白い結果になるんじゃないかなと。あと、言説だと、何がしかの言説上の系譜や概念への責任がどうしてもあるけど、作品って、一定関係ないんだよね。いえ、ここには世界全部があります、なんてことをぬけぬけと言っていいし、作品で使ってる具体的素材内部において、そのrepresenceにおいて責任というか、ケリをつければ、一応、それでなんとかなる。構成素材として、理論的言説じゃないがゆえに、飛躍できそうっていうことだね。冗談の効果とにてるけど。
で、私はむしろ、舞台として考え直すと同時に、そもそも文学は社会の素材を引用してたんだから、なんか持ってきて舞台にかければ、原則的には、じゃあ作品になるじゃん、と。この構成原理でいけば、もう何でもいけるな、と。したがって、象徴資本のある文化、60年代的討議集会、簡便な舞台 という三位一体を思ったのだ。
と同時に、ここでは原則としてはそうなるし、ナンシーじみてくるんだけど、諸媒体においてそれぞれ固有なものと不可能なものとの葛藤があり、したがって、その齟齬において、齟齬を分有しうる。だから、映画は映画の固有性と不可能性を引きずるんだけど、それゆえ、ある種、全称的なものに、否定的に抵触する。この構図は他の諸媒体においても近似的なプロセスが出てくるが、しかし、その抵触経路において星座のごとき差が出てくる。だから原則としての「なんでも作品化しうる」といっても、それとしては存在しないし、不可能なものだろう。
そこでフィクションというものが立ち上がる必要がある。それは、作品形式としてのフィクションだとか話法の手法だとか、ドラマということじゃなくて、一種の謎を立ち上げてしまうようなものが必要。それこそが信を産出するような謎が。「素材内部において、そのrepresenceにおいて責任というか、ケリをつければ」とか「何らかの具体的素材の変奏で成立させ」っていうのはそういう感じのことで、ゴダール『映画史』にあってはまさに「映画だけが」は、何度も回帰して変奏されているでしょう。カタがついていないような、不気味な変奏を行う。作品の構成というときに私が考えるのは、そういうものをいかに立ち上げるかってことだね。やっぱり謎が必要なんだな。ただ、この種の作品構成の問題は、まだ私も考えが整理できてない、難しい問題だね。言説からの単純なコンバートがありうるものになっても困るし。かといって、言説にとっての彼岸のような、そういうものにも思いたくないのだ。言説こそがそもそもそういうものだから。まあ、原則としては、あんまり深く考えないで、いい加減にでも、できてしまえるはずなのだ、と思ってるんだけどね。
私たちは、こうやってチャットで会話をしているし、またネットでいろんなおしゃべりを見ているでしょう。書き文字でね。こんな異様なことってないよね。近代文学的には。むしろ、近代文学の形式という身体、器は、あの書き文字・口頭言語・活字媒体の編成のもとで成立し、かつ長大化したのであって、こうも途切れ途切れのネットの書き文字で、ネットで展開するときに、いい加減な作品構成のやり方があってもおかしくないだろう、と。貧しい手法、貧しい道具、貧しい環境で、コンセプトと構成だけで作れてしまう、というのはありじゃないかな、と。
雑記14 交渉 - 勇午1
「勇午」(真刈信二・赤名修)の中で出色のシーンは21巻(第10部[パリにおけるイスラエル-パレスチナ編])にある。アメリカ国務長官を殺害するために走り抜けようとするTGVの当該車両を狙って線路をまたがる高架橋からロープを結わえて飛び降りるパレスチナ人の子供は、イスラエル側の秘密部員によって飛び降りの直後射殺される。TGVの当該車両への巻き込みは成功せず、ロープに下がったまま、撃ち抜かれた頭部から子供は血を流す。
勇午は秘密部員を問い詰める。イスラエル国家を安住の地というが、こんな子供たちの犠牲の上に成り立っているんじゃないかと。しかしこう返される。「だからどうだ。お前たちはいつもそうだ、血を流すこともなく安全な場所から奇麗事を言うだけ。お前があの子たちの側じゃないことぐらい本当はわかっているはずだ。弱者を力でねじ伏せ、安寧と富の生を生きているのはお前も一緒だ。いま私が撃たなければ私もお前も死んでいただろう。子供を殺してまで守るべきものがあるだなんて考えたくないのは私だって一緒だ。だが、お前が私たちに何を言えることがあるんだ?」
語る側について即座に返される、語る側自身への叱責、立場の違いという残酷な差の露呈。22巻の第11部(中国編)でも勇午は、誰の立場でもないような交渉人、容易に依頼者の立場を代理できるかのような交渉人という欺瞞から外れ、何がしかの立場に立たざるをえないことをあらわにする。
文革のときに母を殺し父を廃人にし父の論文を略取し(その論文が今後の中国のためになると考え)父に成り代わった張紫功はそのことを娘の前で暴露される。謝罪し、私を父と呼ばないでくれと繰り返す張は、怒りに駆られてシャベルを振りかざす娘の美々に対して目を閉じ抵抗せず振り下ろされるシャベルを待つ。それを止めることなく勇午は「殴りなさい」と言い、美々はシャベルを下ろし、知らなきゃよかった、最愛の父が両親を殺したも同然の人間で、その男にぬくぬくと育てられてきたなんて、今日からこの男を憎んであの廃人を愛して生きろとでもいうのかと泣き崩れる。
後日、「殴りなさい」となぜ言ったのか、そう言うことで父に成り代わった偽者を殺すことに躊躇することを狙ったのか、美々にそう問われて勇午は「もし殴れるなら殴ったほうがいいと思った。そのほうが中国の人々ためになる」と返し(どういう意味での「中国のため」なのかが不穏なのだが)、美々の、苛立ち、憮然としているような表情が突きつけられるとともに(実質的には)物語が終わる。
勇午の交渉はつねに、長年にわたる非和解、亀裂を和解にもちこめることには成功していない。それは最初のパキスタン編のころからであり、ダコイット(山賊)とパキスタン政府の抗争に終止符を打つことはできず、当初の依頼内容である人質を救出することで終了する。ダコイットの首領と互いに神と名誉を祈り、別れを告げる。和解そのものは達成されることなく、ある小さな交渉内容の終止があり、和解は祈られるにとどまる。こうした、交渉内容は成功するが、和解や未来に向けた陰謀・構想の直接的な阻止・解決には失敗するという構成は、第3部(ロシア編)や第5部(イギリス-北アイルランド編)の時点で明瞭だった。第3部。ロマノフ王朝の隠し遺産は適切な使われ方のために未来に向けて凍結され、当座の使用は保留される(ただし、依頼内容は「依頼人自身の意図よりも遺産遺言者の遺志を継ぐ」というかたちで、依頼内容の文面を読み替えられ、依頼者の望む資産の私的利用は、交渉人自身の意図から阻止されている)。第5部。IRA分派によるEU外相会議の会議場爆破が死傷者を出すことを阻止するという依頼内容は達成するが、その過程でIRAへの共感者を生み出すIRA分派党首の策の阻止には失敗し、IRAとイギリスとの亀裂を埋めるどころか逆の事態を未来に先送りしてしまう。
イブニング連載第1部(下北半島編)ではアメリカへの亡命を望む北朝鮮工作員ユン・ミッチョルと勇午はこう会話を交わす。(抜粋ではなく文脈に合わせて箇所によっては大幅に修正した大意)
ユン 君はなぜ交渉をするように?
勇午 僕も訊きたかった。あなたはなぜ対日工作を?
ユン 北と日本は敵同士だ。日本は植民地時代の清算を済ませていない。だから志願した。
敵に損害を与え未来の国交交渉を有利に導く。
勇午 それで交渉が有利になるとでも?
ユン 日本人は想像力が欠けている。「今日本人が怒っている」。
なるほど、ならばわかるだろう、我々の怒り悲しみ憎しみの深さが。
勇午 理解したいと思っている。
ユン 私の質問に答えろ。
勇午 交渉は最後には和解に終わる。それを信じたい。
ユン …そう思えるのは幸せだ。
和解に向けての一歩としてしか行為はできないが、現在時においてそれは、未来における和解の実現への「祈り」としてあるほかないという構図はここで明確に出ている。第10部、第11部、日本編第1部はシリーズ制作時期において連続しているのだが、この3作において両立場の齟齬、両立場そのものには立てない交渉人自身の立場という齟齬、しかし余白としてある交渉人の立場ゆえに言われもする「幸せ」な「傲慢」でも同時にあるような希望の表明(そしてそれは祈りとしてしか提出しえない)は濃厚になっていく。認識においてはペシミスト、しかしながら行動においてはオプティミストであれ、と説いたのはロマン・ロランを引いてこう言うグラムシだが、遺産相続的な翻訳であり交渉であるような介入作業は、つねにこうした立場への分け入りと、未来に向けられた場のオプティミスティックな創出としてあるほかない。蛇足的に対比するならば、これが、たとえば浦沢の「モンスター」では遂に回避し続け、描きえなかったものであり、渾然一体に雰囲気に飲み込むような演出に傾いてしまって全く現れなかったものだった。
第10部、秘密部員に問い返されて勇午はこう応える。「せめて忘れないでいよう、あの子がいたことを、あの子を救えなかったことを」。死者は亡霊となり私たちのもとに住み着いている。
■追記
上に書いた文章は、友達に単に勇午を読ませて、是々非々にその模索点と読める箇所とその限界について話し合ってみようかと思って走り書きしたようなもの。書いた後で読み返すと、無駄に気取ってるし、限界について触れていない(あんまり考えきれてない)文章になってて駄文と感じた。まあ、記憶殺し(ゴイティソーロ)や終わりなき交渉-折衝の線で読んでみた、というぐらいか。
こういうとき、興味深い読解がすでにあるのなら、と調べるのだが、文学研究や文学批評と違って漫画に関してはどうアクセスしていいのかわかりにくくて難しい。そもそも刺激的な議論がすでに1つでもあるのかどうかすら疑わしいし。
しばし調べてこんなレヴューを見つけたが、まあよく言われる側面はこの「相手との信頼関係の構築」なんだろう。そしてそのためにできるだけ下準備をし、相手の情勢を把握し、先手を取ることと、相手からの協力を互いの利益になるよう交換として行うかプロフェッショナルな間柄同士の友情に基づいていること。麻生外相がなぜか勇午を好きだという(こんなんウィキにわざわざ載せんなと思うが)のもこういう工夫と努力に基づく信頼関係や友情、さらには、それらをアドホックに打ち立てることに可能にする構えについて外交とのアナロジーを見ているからなのだろう。そういえば、かつて私はゴダールの言う行商人としての映画と柄谷の言う交通を混ぜたような発想から、(実際的な事柄や組織的制約などを全部捨象して)外交官としての翻訳者-批評家というモデルを考えていたのだが、念頭にあったのはこういう事例や人類学者の参与観察の概念からだったように思う。
勇午は秘密部員を問い詰める。イスラエル国家を安住の地というが、こんな子供たちの犠牲の上に成り立っているんじゃないかと。しかしこう返される。「だからどうだ。お前たちはいつもそうだ、血を流すこともなく安全な場所から奇麗事を言うだけ。お前があの子たちの側じゃないことぐらい本当はわかっているはずだ。弱者を力でねじ伏せ、安寧と富の生を生きているのはお前も一緒だ。いま私が撃たなければ私もお前も死んでいただろう。子供を殺してまで守るべきものがあるだなんて考えたくないのは私だって一緒だ。だが、お前が私たちに何を言えることがあるんだ?」
語る側について即座に返される、語る側自身への叱責、立場の違いという残酷な差の露呈。22巻の第11部(中国編)でも勇午は、誰の立場でもないような交渉人、容易に依頼者の立場を代理できるかのような交渉人という欺瞞から外れ、何がしかの立場に立たざるをえないことをあらわにする。
文革のときに母を殺し父を廃人にし父の論文を略取し(その論文が今後の中国のためになると考え)父に成り代わった張紫功はそのことを娘の前で暴露される。謝罪し、私を父と呼ばないでくれと繰り返す張は、怒りに駆られてシャベルを振りかざす娘の美々に対して目を閉じ抵抗せず振り下ろされるシャベルを待つ。それを止めることなく勇午は「殴りなさい」と言い、美々はシャベルを下ろし、知らなきゃよかった、最愛の父が両親を殺したも同然の人間で、その男にぬくぬくと育てられてきたなんて、今日からこの男を憎んであの廃人を愛して生きろとでもいうのかと泣き崩れる。
後日、「殴りなさい」となぜ言ったのか、そう言うことで父に成り代わった偽者を殺すことに躊躇することを狙ったのか、美々にそう問われて勇午は「もし殴れるなら殴ったほうがいいと思った。そのほうが中国の人々ためになる」と返し(どういう意味での「中国のため」なのかが不穏なのだが)、美々の、苛立ち、憮然としているような表情が突きつけられるとともに(実質的には)物語が終わる。
勇午の交渉はつねに、長年にわたる非和解、亀裂を和解にもちこめることには成功していない。それは最初のパキスタン編のころからであり、ダコイット(山賊)とパキスタン政府の抗争に終止符を打つことはできず、当初の依頼内容である人質を救出することで終了する。ダコイットの首領と互いに神と名誉を祈り、別れを告げる。和解そのものは達成されることなく、ある小さな交渉内容の終止があり、和解は祈られるにとどまる。こうした、交渉内容は成功するが、和解や未来に向けた陰謀・構想の直接的な阻止・解決には失敗するという構成は、第3部(ロシア編)や第5部(イギリス-北アイルランド編)の時点で明瞭だった。第3部。ロマノフ王朝の隠し遺産は適切な使われ方のために未来に向けて凍結され、当座の使用は保留される(ただし、依頼内容は「依頼人自身の意図よりも遺産遺言者の遺志を継ぐ」というかたちで、依頼内容の文面を読み替えられ、依頼者の望む資産の私的利用は、交渉人自身の意図から阻止されている)。第5部。IRA分派によるEU外相会議の会議場爆破が死傷者を出すことを阻止するという依頼内容は達成するが、その過程でIRAへの共感者を生み出すIRA分派党首の策の阻止には失敗し、IRAとイギリスとの亀裂を埋めるどころか逆の事態を未来に先送りしてしまう。
イブニング連載第1部(下北半島編)ではアメリカへの亡命を望む北朝鮮工作員ユン・ミッチョルと勇午はこう会話を交わす。(抜粋ではなく文脈に合わせて箇所によっては大幅に修正した大意)
ユン 君はなぜ交渉をするように?
勇午 僕も訊きたかった。あなたはなぜ対日工作を?
ユン 北と日本は敵同士だ。日本は植民地時代の清算を済ませていない。だから志願した。
敵に損害を与え未来の国交交渉を有利に導く。
勇午 それで交渉が有利になるとでも?
ユン 日本人は想像力が欠けている。「今日本人が怒っている」。
なるほど、ならばわかるだろう、我々の怒り悲しみ憎しみの深さが。
勇午 理解したいと思っている。
ユン 私の質問に答えろ。
勇午 交渉は最後には和解に終わる。それを信じたい。
ユン …そう思えるのは幸せだ。
和解に向けての一歩としてしか行為はできないが、現在時においてそれは、未来における和解の実現への「祈り」としてあるほかないという構図はここで明確に出ている。第10部、第11部、日本編第1部はシリーズ制作時期において連続しているのだが、この3作において両立場の齟齬、両立場そのものには立てない交渉人自身の立場という齟齬、しかし余白としてある交渉人の立場ゆえに言われもする「幸せ」な「傲慢」でも同時にあるような希望の表明(そしてそれは祈りとしてしか提出しえない)は濃厚になっていく。認識においてはペシミスト、しかしながら行動においてはオプティミストであれ、と説いたのはロマン・ロランを引いてこう言うグラムシだが、遺産相続的な翻訳であり交渉であるような介入作業は、つねにこうした立場への分け入りと、未来に向けられた場のオプティミスティックな創出としてあるほかない。蛇足的に対比するならば、これが、たとえば浦沢の「モンスター」では遂に回避し続け、描きえなかったものであり、渾然一体に雰囲気に飲み込むような演出に傾いてしまって全く現れなかったものだった。
第10部、秘密部員に問い返されて勇午はこう応える。「せめて忘れないでいよう、あの子がいたことを、あの子を救えなかったことを」。死者は亡霊となり私たちのもとに住み着いている。
■追記
上に書いた文章は、友達に単に勇午を読ませて、是々非々にその模索点と読める箇所とその限界について話し合ってみようかと思って走り書きしたようなもの。書いた後で読み返すと、無駄に気取ってるし、限界について触れていない(あんまり考えきれてない)文章になってて駄文と感じた。まあ、記憶殺し(ゴイティソーロ)や終わりなき交渉-折衝の線で読んでみた、というぐらいか。
こういうとき、興味深い読解がすでにあるのなら、と調べるのだが、文学研究や文学批評と違って漫画に関してはどうアクセスしていいのかわかりにくくて難しい。そもそも刺激的な議論がすでに1つでもあるのかどうかすら疑わしいし。
しばし調べてこんなレヴューを見つけたが、まあよく言われる側面はこの「相手との信頼関係の構築」なんだろう。そしてそのためにできるだけ下準備をし、相手の情勢を把握し、先手を取ることと、相手からの協力を互いの利益になるよう交換として行うかプロフェッショナルな間柄同士の友情に基づいていること。麻生外相がなぜか勇午を好きだという(こんなんウィキにわざわざ載せんなと思うが)のもこういう工夫と努力に基づく信頼関係や友情、さらには、それらをアドホックに打ち立てることに可能にする構えについて外交とのアナロジーを見ているからなのだろう。そういえば、かつて私はゴダールの言う行商人としての映画と柄谷の言う交通を混ぜたような発想から、(実際的な事柄や組織的制約などを全部捨象して)外交官としての翻訳者-批評家というモデルを考えていたのだが、念頭にあったのはこういう事例や人類学者の参与観察の概念からだったように思う。
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