2008年4月18日金曜日

ジェラール・フロマンジェ監督/ゴダール撮影「ルージュ フィルムトラクト1968番」(1968)

フロマンジェ「ルージュ」
(Rogue, film tract No.1968, 3mins, silent, 1968)
See(in Niconico Doga)

release(公開): showed noncommercially at student rally, factory during the strike and so on in 1968.(1968年に学生集会や、ストライキ中の工場や、他の現場で非商業的に上映)
shooting period(撮影):May or June 1968(1968年5月または6月)
director: Gérard Fromanger
director of photography: Jean-Luc Godard
note(written by Sally Shafto): after that, Fromanger directed other version with Marin Karmitz. (フロマンジェは続いて、マラン・カルミッツと他のヴァージョンを撮った。)
Above note is written referring to filmography (ed. by Sally Shafto) in Colin MaCcabe’s Godard(Bloomsbury, 2003).(上記のスタッフリストはコリン・マッケイブ『ゴダール伝』(堀潤之訳、みすず書房、2007)巻末フィルモグラフィー(サリー・シャフト編)を参考にした。)

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Adduces recital there: Gérard Fromanger, “Il faut créer un Vietnam dans chaques musée du monde”, Jeune, dure et pure! Une histoire du cinéma d’avant-garde et expérimental en France, eds., Nicoles Brenez and Christian Lebrat (Paris and Milan: Cinémathèque Française and Mazzotta, 2001), pp.336-338.
Perhaps its article have translated in English and can read in this article of Rouge (no.1, 2003).
(フィルモグラフィで挙げられているフロマンジェの記事「世界の美術館のそれぞれにおいてヴェトナムを作らなきゃいけない」、ニコル・ブレズ、クリスチャン・レブラ編『若く、しぶとく、純粋な! フランスにおける前衛映画史・実験映画史』(シネマテーク・フランセーズ&マゾッタ、2001)pp.336-338)は英語版をRouge(no.1, 2003)の記事で読むことができる。
Following Japanese sentence is Japanese translation from eng.trans.aricle.(以下はその英訳からの重訳である。)

凡例
・イタリック体は太文字で表記した。
・荒っぽく訳したり意訳したりしたので箇所に応じて原文を[]で示す。
・〔〕は別の訳文を足して補った箇所。
・英訳ではひとまとまりになってる文章を段落づけして細かく分けた。
注記
・たぶんフロマンジェのインタヴューなのだろう。採録者、聞き手がRougeの方の記事では載っていないが。
・語り手「私」=フロマンジェ、「彼」=ゴダールを指す。
・所要時間約2時間の超ざっくばらんな訳。下手くそだったり単調だったり口調が不整合だったりしても気にしないこと。

「ルージュ」(1968)
ジェラール・フロマンジェは1968年5月にジャン=リュック・ゴダールと出会った…

 私たちはすでに彼のところで会って話す段取りを取っていた(そのとき彼が住んでいたのはサン=ジャック通りの二世代住宅だ)。彼の部屋でベッドと向かい合わせに、私たちはいっしょに座り、数時間にわたって沈黙のままにそこにいた。一言も口を利かずにね。彼はその間何もせず、何も言わなかった。彼はただただそこに座っていたんだ。

 長き数時間が経過した後、彼は私にこう尋ねた。「どうするんだい?」 私はその言葉を私のフラグ・ペインティングについて尋ねているのだと理解し、描く過程を彼に説明し始めた。彼はペンと紙を探しにいき、私が言ったことすべてをノートにとった。つまり、キャンバスに絵具を置くこと[paints]、筆の動きで筆触を出すこと[brushes]、絵具の鉢を使うこと[bowls]について。それから5分の間私を家に残して出かけ、これらすべての素材[materials]を揃えて戻ってきた! 彼はこう言う。「で、どうするんだい?」 私は旗を描くように言い、彼は三つの長方形を描いたのだった。まず青を置き、次に白を置き(といってもキャンバスは白いので既にそこにあるんだが)、そして三つ目に赤を置くはずだったのだが、彼は子供のようにくすくすと笑いながら、物語をしながら[telling stories]、自分でやった。そうしてるのがあんまり楽しかったんだろう。それから私に「これでいいかな、どうしよう?」と尋ね、それから本番[real work]を始めた。

 彼がずいぶんたっぷり赤を置いているので、私は、これじゃ白と青のところまで溢れちゃうなぁ、全部赤になっちゃうぞ、あるいは、薄い塗りになっちゃうな、とか思っていた。絵具を上に垂らしたりするつもりなのかな、それとも下に垂らすつもりかもしれない、その垂れるラインを短くするつもりか、いや、長くするつもりなのかな、とかね。それから彼は私に普段の私の制作方法ならこれからどうやるんだと尋ねたので、絵具が上に垂れるようにすることと、激しくはあるが量感を出さないようにするということと、にもかかわらず鮮明に、生き生きと、動きのあるものにするということを指示した。すばやく準備してからキャンバスを持ち上げるんだよ[turn the painting]と言うと、「あえてそれをやらないでみよう![I wouldn't dare try it!]」と返してきた。私はこう断言した、「やらなきゃだめだって。やり方は教えるからさ[You must, and I will help guiding you.]」。

 それから彼は赤い長方形の部分を持ち上げ、私はイメージが姿を現してくるように仕向けた。その現われを彼はあまりにすばらしく思ったらしく、彼は私が止めるまでずっとそれを見詰めていた。「こりゃすごい、すごいな。でも知りたいな。君はこれをフィルムに撮ってみようと思ったことはないの?」 私はそのアイデアに異論はなかったが、映画のカメラで作品を撮る方法がわからなかった。じゃあその役目はぼくがやって手伝おうじゃないか、とジャン=リュックは言った。その次の日には撮影を始め、素材として私の作品のポスターを使って撮ろうと彼は望んだ。これがその後2年続く友情の始まりなんだ。


 結局のところ、ジャン=リュックは私から絵の描き方を教えてほしかったんだろう。6ヶ月のあいだ、私は彼に脚本で使うための素描を手伝ったし、それは最高の経験だった。素描というものが自然に存在するんじゃなくて、完全に抽象的なものだってことを彼はすぐさま把握した。ペンで紙の上に何かを創りあげ、それを実在性と関係付ける〔真に迫らせる〕こと[To create something with a pen on paper in relation to reality]は、実在性についての視点を持つことなんだ。観察するというのは、人が見るはずのものを再生産することじゃなくて、実在性において反省することだ。6ヶ月経って彼は私にこう言った。「よし、これで終わった。もう十分だ」。ジャン=リュックとの間の絵を描くセッションについて私が今思い出す特別な記憶がある。何らかの単純なものは(だって私たちがそれを見ているのだから)素描になりうるだってことを彼が把握した瞬間、すべてが(電話、亀裂、幸福が[a telephone, a crack, happiness])ある意味で「描かれたもの」でもあるんだと彼は理解したんだ。それは本当に魅力的なことで――子供じみていて、驚くべきことだった。私は彼に心底驚かされたんだ。彼の知性と感性――そして柔軟さにね。

『若く、しぶとく、純粋な! フランスにおける前衛映画史・実験映画史』(シネマテーク・フランセーズ&マゾッタ、2001)から抜粋

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 これまでフロマンジェが邦語で言及された例はあまり知らないが、とりあえずゴダール絡みで言及された例で、ネットで読めるもの:
浅田彰「歴史の授業」 (2001年に『ベトナムから遠く離れて』『北緯17度』『東風』が上映された際のパンフ掲載文章で、ざっとゴダールの60-70年代を振り返ったもの)
堀潤之「世界ゴダール会議「フォー・エヴァー・ゴダール」に参加して」 (2001年にテート・モダンで開かれたゴダール国際会議に関するレヴュー[英語で既に書籍版は刊行されている]。「ルージュ」も上映されたらしいが、この記事では堀は『赤』と作品タイトルを記している。)

 なお、60-70年代の雰囲気を示すものとして、ドゥルーズやフーコーの写真肖像を下地にフロマンジェがカラフルなペインティングを施した作品が紹介されることもあり、絵についてよく知らない人でもこの作品は書籍などで見たことのある人もいるんじゃないだろうか。ちなみに、『ユリイカ』1985年10月号には「小特集=フロマンジェ」があり、ドゥルーズ「冷たいものと熱いもの」(篠原資明訳[現在は『無人島』下巻(1969-1974)の松葉祥一訳で読むことができる])、ガタリ『夜/昼』(丹生谷貴志訳)、フロマンジェ「インタヴュー 線と色彩の旅」(聞き手&訳:浅田彰)を掲載している。

2008年3月25日火曜日

雑記11 作業中の走り書き

t5frさんが教えてくれた英語字幕アーカイブに『フランス映画の2×50年』のeng.srtファイルがあったので、この英訳字幕ファイルと所持している動画ファイルのスペイン語訳字幕とp.o.l.から出されている原文採録テキストを往復しながら訳出している。以下、途中メモ。

・p.o.lの文章に省略がしばしばある。注記なしでテキストが数秒~数分ぐらい飛ぶので困る。数単語、何を言ってるのかわからない箇所も。(意味は英訳字幕で補ったが)
・さらにeng.srtがたまに間違ってる。通常の「~~...」「...~」という字幕の接続の仕方にまぎれて、訳し抜けている箇所を同じように省略してしまっていたり。

[3'07-3'57]
・ピコリの口から、タヴェルニエと一緒に出てくるベルナール・シャルデル(Bernard Chardère)は共著でLes Lumière(1985)を刊行した研究者。リヨンにあるリュミエール兄弟博物館L'Institut Lumièreの設立者でもある。リヨンに設立された理由は、リュミエール兄弟の著名な作品「工場の出口」(Sortie des Usines Lumière à Lyon[英題Workers Leaving the Lumière Factory), 1895)がその原題で示されているように「リヨンにあるリュミエール工場の出口」を出ていく従業員たちの記録映像であり、工場があったことを根拠にしているのだろう。
・そのシャルデルらが「リュミエール博物館内に映画の部屋を作り、兄弟の工房を保全し、「工場の出口」(のおそらく修復フィルムのリプリントか何かだろう)を上映する(une construction d'une salle à L'Institut Lumière de cinema, et la sauvegarde de l'atelier de frère, Sortie des Usines Lumière.)」計画を立てた、とピコリが話すのだが、この箇所がeng.srtでは不明確になっている。Sortie des Usines LumièreをThe Exit from the Lumière Factoryと訳してしまっているし、L'Institut LumièreとLumière Factoryの区別がよくわからないままに訳したのかもしれない。
・ピコリが言ってる計画「映像の谷」(リュミエール兄弟のリヨン地方、ニエプスのシャロン地方、ボーヌ地方で行われる)は、1996年から始まったデジタルイメージの研究プロジェクトとしても結実しているようだった。たとえばこんな研究がなされたらしい。

[12'29-17'30]
・初期映画の作家・理論家が頻繁に言及される。アリス・ギイやシャルル・パテや、エジソン、メリエス、リュミエールらの細かい話に関して映画中毒者の映画の歴史の記事が(これはサドゥールの記述の要約みたいな記事なのかな)、デリュックやデュラック、オリオールらの記述に関しては、この1,2年で一気に充実しているWikipediaの映画関連項目がそれぞれ参考になった。

2008年3月23日日曜日

ゴダール、ザグダンスキー対談『文学と映画』(2004.11.4)

対談『文学と映画』
(Jean-Luc Godard, Stéphane Zagdanski, Littérature et Cinéma, (entretien, 2004.11.4), 137min)
director, camera, etc.:unknown

 2004年11月に行われたこの対談は、当時ザグダンスキーのHP「Paroles des Jours」(重いので注意)にてMP3で公開され、次いで当人によってDailymotionにアップロードされたものである。Gozagというタイトルをつけられ、41本の動画になっている(Dailymotionで見るにはこちら)。私は彼の著作は未読だが、ザグダンスキーは様々な対談を手がけているエッセイストのようで、L'impureté de Dieu(神の不純さ)(Le Félin, 1991), Le Sexe de Proust(プルーストの性)(Gallimard, 1994), Les intérêts du temps(時間の利害関心)(Gallimard,1996), La mort dans l'oeil : Crtique du cinéma comme vision, domination, falsification, éradiction, fascination, manipulation, dévastation, usurpation(眼の中の死:ヴィジョン・支配・偽造・根こぎ・魅了・操作・蹂躙・簒奪としての映画批評)(Maren Sell Editeurs, 2004), De l'antisémitisme(反ユダヤ主義について)(Climats, 2006) など刊行している。タイトルの並びを見る限り、文学研究出身の批評家なのかもしれない。近著にはドゥボール論が予定されている。多くの対談をDailymotionではアップロードしており、たとえばその中にはフランソワ・フェディエ(大学勤務者ではないものの、フランスにおけるハイデガー派の有名人。トム・ロックモア『ハイデガーとフランス哲学』では主として批判対象にされる)とのものもある(ここ)。なお、HPにある彼の対談動画集は、Dailymotionにアップされたものをサイトに埋め込んだものなので、どちらのサイトから見ても動画の質は変わらない。
 仏語の聴き取りは下手なので、ゴダールとの対談主旨を紹介することはできないが、小見出しのようにつけられた41のタイトルを訳して列記しておこう。1/9以外はゴダールタグから外しておいたので、対談「文学と映画」タグで9本が繋留されている。

Table of Contents/目次
1/9
See (in Niconico Doga)
1 "Rumeurs journalistique(ジャーナリスティックな風聞)"(1'09)
2 "Attente(待つこと・期待)"(1'16)
3 "Première caméra vidéo de Godard(ゴダールのはじめてのデジカメ)"(1'42)
4 "Nomenclatures(分類の語彙集)"(2'16)
5 "Réaction de Godard aux invectives(罵詈雑言へのゴダールの反応)"(4'16)
6 "Principes nietzschéens de la polémique(論争のニーチェ的原理)"(2'47)
2/9
See (in Niconico Doga)
7 "Neutralité et confusion(中性性と混乱)"(2'29)
8 "Renoncements du cinéma(映画の禁欲)"(3'29)
9 "Amis et ennemis(友と敵)"(4’14)
10 "Répondre toujours(つねに応答すること)"(1'09)
11 "Conseil à de jeunes cinéastes(若い映画作家への忠告)"(1'12)
12 "Le nom "Américains"(アメリカ人たちの名)"(1'31)
13 "Parler des films(映画について話すこと)"(2'07)
3/9
See (in Niconico Doga)
14 "Puzzles(謎解き)"(1'22)
15 "Bible, Talmud et Mallarmé(聖書、タルムード、マラルメ)"(1'37)
16 "Platon socratisém Kafka et Max Brod(ソクラテス化されたプラトン、カフカとマックス・ブロート))"(5'24)
17 "Adapter ou pas(適用か否定)"(3'00)
18 "Cinépiles, imbéciles(シネフィルたち、愚か者たち)"(0'47)
4/9
See (in Niconico Doga)
19 "Argent du ciéma, gratuité de la Bible(映画は金だが、聖書は無料[やや意訳文])"(3'41)
20 "Cinéma et Domination(映画と支配)"(4'12)
21 "Écriture du mouvement(運動の書法(エクリチュール))"(3'46)
22 "Trinités(もろもろの三位一体)"(3'13)
5/9
See (in Niconico Doga)
23 "Images des Palestiniens(パレスチナ人のイメージ)"(3'33)
24 "Production, distribution, exploitation(生産、流通、搾取)"(4'16)
25 "Image et son(映画と音楽)"(3'17)
26 "Habiter son nom(自らの名に住みつく)"(4'57)
6/9
See (in Niconico Doga)
27 "Dire, montrer, critiquer la critique(言う、示す、批評を批評する)"(4'13)
28 "Camp de la Mort(死の収容所)"(3'43)
29 "Le montage n’existe pas(モンタージュは存在しない)"(5'19)
7/9
See (in Niconico Doga)
30 "Domination du “Je sais” et mesonge total(「知」の支配と全体的な嘘)"(3'21)
31 "Dire et faire(言うこととすること)"(1v41)
32 "Faussetés(もろもろの誤り)"(3'08)
33 "Juifs exterminés, suicidaires palestiniens(絶滅されたユダヤ人、自殺するパレスチナ人)"(8'34)
8/9
See (in Niconico Doga)
34 "L'auteur(作家)"(1'33)
35 "Contrechamp et directives(切り返しショットと)"(3'36)
36 "Métaphore et idée(隠喩と理念)"(10'51)
9/9
See (in Niconico Doga)
37 "Autour de Serge Daney(セルジュ・ダネーをめぐって)"(5'38)
38 "Méchanceté?(意地悪?)"(2’10)
39 "Calculs de la Technique(技術の計算)"(3'10)
40 "Timbres de voix et histoire nationale(声の響きと国民史)"(3'08)
41 "Malédiction de la vidéo et de Margurite Duras(ビデオの不幸とデュラスの呪詛)"(4'12)

2008年3月12日水曜日

雑記10 最近の緩慢な予定(消すかもしれない記事)

作業中の動画
足立正生『略称 連続射殺魔』(1969):up準備中 up完了
ロベルト・ロッセリーニ『元年』(字幕なし版)(1974):up準備中 up完了
・ゴダール&ミエヴィル『フランス映画の2×50年』(1995):邦訳中
・エリア・スレイマン監督作『消滅の年代記/消えゆく者たちの年代記(Chronicle of dissappearence)』(1996): 英訳字幕を邦訳中

予定は立ててるのに先送りしているもの
・エリア・スレイマン監督作『D.I.』の英語字幕/邦訳対訳採録記事作成、および字幕付きの高画質版up
・『ロートリンゲン!』『すべての革命は~』のそれ
・『古い場所』のそれ

作業しようかしらと悩んでること
Journal of Palestine Studies所収のスレイマン・インタヴューの邦訳記事作成
・ジガ・ヴェルトフ集団監督作『ジェーンへの手紙(Letter to Jane)』(1968)英語字幕版の邦訳作業
・ミシェル・クレイフィ監督作『ガリレの婚礼(Marriage in Galiee)』英語字幕版の邦訳作業
・ジーバーベルク監督作『ルートヴィヒ』(1972)英語字幕版の邦訳作業

長大なので投げ出してるがやりたいと思い続けてること
・クロード・ランズマン監督作『ショアー』(1985)の邦訳字幕版作成
・ジーバーベルク監督作『ヒトラー:ドイツからの映画(Hitler. A Film from Germany)』(1978)の邦訳字幕版作成
・ジーバーベルク監督作『パルジファル』(1982)の邦訳字幕版作成
・David Barison&Daniel Ross監督作『The Ister』(2004)の邦訳字幕版作成
Barton Bayg, Landscapes of Resistance. The German Films of Danièle Huillet and Jean-Marie Straub(University of California Press, 1995)の邦訳


内容把握したくてたまらないけれど言語が理解できないのでupを泣く泣く諦めているもの
・オリヴェイラ監督作『春の劇』(1963)『破滅の恋』(1978)『カニバイシュ』(1988)『絶望の日』(1992)など
 :イタリア語訳字幕があったりなかったり。わからん。
・ロッセリーニ監督作『ルイ14世の権力掌握』(1966)『使徒行伝』(1969)『ソクラテス』(1970)『元年』(1974)『メシア』(1975)『ヒッポのアウグスティヌス』(1975)など
 :外語訳字幕すらない。お手上げ。

お勉強スケジュールのなんとなく予定(積読本予定リストとも言う)
・マフムード・ダルウィーシュの詩集『壁に描く』(書肆山田)読む
・エミール・ハビービー『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』(作品社)を読む
他多数なので略

ニュース
・ぶらぶらとWikipediaにあったイタリア国内のイタリア語教育政策についての記事を読んでいてびっくり。Rai TreやRai Satなどを関連組織に展開している放送局Raiって、国営放送局なんだとか。オリヴェイラやらストローブ&ユイレやらCinema de notre tempsなどを平気で放送するあそこは国営なのか。すごすぎる。
 と、素朴にいかにもシネフィルとして喜ぶのもどうかと思うので付け加えると、ベルルスコーニの所有するメディア・セット(イタリアのメディアの7割を席巻するという巨大部門)とRaiの対立があり、ベルルスコーニは73代首相時代にメディアの寡占体制の是正と称してRaiを分割民営化させようとするガスパリ法を議会で可決させている。クロスオーナーを主導するメディア王の主張とは到底思えない。サッチャーを尊敬するなど、ネオリベの権化のような人だなぁ。構図がわかりやすすぎることに唖然とするべきなのか、ネオリベと資本の強さを再実感すべきなのか悩んでしまうような図だ。あるいは単に私の政治経済への理解能力が杜撰なのか。とはいえ、日本はイタリアのメディア状況を対岸の火事として笑える事態にはないわけで、(特にネットで)よく言われるようにメディアのクロスオーナーシップが成立している(大意)日本がいわば地獄であるとしたら、イタリアは煉獄に相当するようなものなのかもしれない。
 
・先日の池袋の新文芸座での映画史一挙上映企画で、在庫切れの甚だしかった『ゴダール 映画史 テクスト』{堀潤之・橋本一径訳、愛育社)が販売されていたと聞く。これ買うためだけであってでも行けばよかったと後悔。そういえば今月の日仏&ユーロのリヴェット企画がすごい。作業を捨てて行きたくなる。これほどの良企画となると混みそうだけど。あとは、若松孝二の新作が興味深いのと、アテネフランセのコスタ特集が面白そうですね。(この手のレヴュー・上映企画紹介は当ブログではやるつもりはありませんが)

・『気狂いピエロ』日本語字幕版をupする人が出て、ゴダールタグをつけてる。なんだかうれしい。1/6だけじゃなくて全部タグづけしちゃってもいいのに。ゴダールの60年代中盤までと80年代の有名作をもともとあまりupしたり採録作成する気がなかったもので、up対象の棲み分けと分担的による充実化が生じたらいいな、とか自分勝手に妄想を膨らませる。

2008年3月1日土曜日

ストローブ&ユイレ『ロートリンゲン!』の背景1

エッセー的に、歴史にも不勉強なままにつらつらと書いてみる。
以下のウィキペディア項目ぐらいしか見ていないが、
ロレーヌ地域圏
メロヴィング朝
カロリング朝
東フランク王国
神聖ローマ帝国
フランク王国
中フランク王国
ロタリンギア
ハインリヒ1世
オットー1世
神聖ローマ帝国
フランス王国
ローマ帝国
西ローマ帝国
東ローマ帝国
イタリアルネサンス

・コレットとアスムスの見た地元紙「オーストラジーAustrasie」もただの古い地名ではなく、フランク王国第一代王朝メロヴィング朝の時代(481-751)のアウストラシア王国につながる。この時代、メスは王国の首都だった。

・その後、第二代王朝カロリング朝がはじまるが、840年にフランク王国のルートヴィヒ1世が死去したのち締結されたヴェルダン条約(843)によって、この地において東西を東フランク王国、西フランク王国に挟まれたかたちで中フランク王国が成立した。別名中部フランク王国、ロタール王国、ロタール領とも言われるが、初代国王ロタール1世の死去の翌年結ばれたメルセン条約によって東中西フランク王国の各領土は再確定され、中フランク王国はイタリア、ロタリンギア、プロヴァンスに3分される。ロタリンギアはロレーヌ(Lorraine,仏)、ロートリンゲン(Lothringen,独)の語源。この時代の首都もメス。
・その後も西フランク王国が王家断絶する911年までカロリング朝の時代が続くが、東フランク王国第三王朝ザクセン朝(ドイツ王国:919-962。東フランク王国第一王朝はカロリング朝になる:843-911)をハインリヒ1世が開き、ドイツ王国時代にロタリンギアは包含されている(925)。アスムス教授が言う、メスがゲルマンのもとに屈したというのはこのことを指す。そしてハインリヒ1世の息子オットー1世が962年以降、神聖ローマ帝国をはじめる(-1806)。他方、987年には旧西フランク王国でフランス王国がはじまる(第一王朝カペー朝)
・ロタリンギアのドイツ王国併合の1年前は、カール大帝(800-814)によって始まり東西フランク王国の国王がローマ皇帝を歴任したフランク・ローマ帝国が終わる年でもある。

・ゲルマン/ドイツの という語句のもつ含意はおそらくこうした背景のもとで意識的に選択されている。おそらく、ゲルマン(フランク族)というのはローマン(ローマ-ラテン)と対になっているのかな。しかし、当時の西欧圏で東ローマ帝国への意識がどの程度だったのか、ドイツ王国から神聖ローマ帝国に移行するまでの「ローマ」の求心力はどうなっているのか、全く不勉強なのでこの仮定はまだ成り立たない。

・バレスの執筆した1900年代という、1870年の普仏戦争の際のアルザス・ロレーヌのプロイセンへの併合の記憶を親や祖母世代が持っていた頃には、10世紀以来成立したフランス王国/神聖ローマ帝国という構図が堆積しているのだろうが、わからないのはハインリヒ1世の頃にすでにそうした構図がメスとドイツ王国の間にあったとみなすことができるかどうか。バレスは単に遡行的に現在を投影して1000年前を想像させているのかもしれない。

以上はさておき、本作品の軸は
・独/仏語
・普仏戦争後のフランスナショナリズム
・普仏戦争後にロレーヌの人々が強いられた、難民のような行路
こうした近世近代において不可避に生じている一般的な構造の見え隠れ と
・地の文の声とアスムス教授の声を担当する男声 と 祖母&コレットの女声の 対峙
 (その構図のもとで最後のコレットの正面を向く姿が成立している)
・近世までの痕跡が濃く残る建造物(がたぶん間接的に関わっている部族間・王国間・宗教間の諸抗争)が普仏戦争を媒介として独仏間の構図へと収斂するように反響しあうこと

あたりなんだろうと思う。

ローマ-ラテンとか言い出したら、裏づけが必要になるな。神学-形而上学もまだヨハネス・(スコトゥス・)エリウゲナ(810-877)ぐらいの頃で、カール2世治世期にカロリング・ルネサンス起きてたあたりか。よくわからないままに坂部恵のカロリング・ルネサンス本でも読み進めてみよう。

■ 追記(2008年3月4日)
 本田訳『コレット・ボドッシュ』入手。68年前の初版だったのでほとんど古文書のごとき紙質。奥付には「定價一圓五十銭」とあり、版元の検印がまだある。
 バレスの生没年は1862-1923なので、eBookにあるように、著作権はもう切れているようですね。訳書の方で言うと、本の組版の権利は編集著作権扱いなので刊行後50年で消えるはずだからもう権利は切れてるけれど、訳者の本田喜代治の生没年は1896-1972なので、(翻訳者の著作権は死後51年経たないと消えないので)翻訳文の権利は切れてない。よって、いかに現在手に入りにくいこの邦訳であっても、活字を全編upするのは違法扱いを避けられないですね。あと、200頁ほどの分量だからわざわざ読む人いなさそうだ。ストローブ&ユイレの手がけるテキストの邦訳で言うと、ヘルダーリンは邦訳全集も復刊したので読めるし、ブレヒトの『ユリウス・カエサル氏の商売』もパヴェーゼも探せばまああるだろうし、ヴィットリーニは一部作品が文庫化したし。異様に手に入りにくい古い本はこれぐらいだろうけど、注目度も低そうだからほっとこう。個人的にはこのあたりの関連書籍はもうちょっと読んでみようと思う。
 邦訳書を読了次第、採録の方の該当頁数を付記します。

ストローブ&ユイレ『ロートリゲン!』シナリオ採録+日本語訳

(最終更新: 2009.6.3)
『ロートリンゲン!』
Lothringen! (1994, 22m)

director: Jean-Marie Straub, Danièle Huillet
text: Maurice Barrès, Colette Baudoche, (1909) (モリス・バレス「コレット・ボドッシュ:メッツの一少女の物語」、『コレット・ボドッシュ』本田喜代治訳、白水社、1940、pp.27-223。近年作者名は「モーリス・バレス」と表記されている)
camera: Christophe Pollock(クリストフ・ポロック), Emmanuelle Collinot(エマニュエル・コリノ)
recording: Louis Hochet(ルイ・オシェ), Georges Vaglio(ジョルジュ・ヴァリオ)
mixiage: EURO STUDIOS
cast: Emmanuelle Straub(エマニュエル・ストローブ)(コレット・ボドッシュ)
voice: Emmanuelle Straub(コレット・ボドッシュ), André Warynski(アンドレ・ヴァリンスキ)(narrator), Dominique Dosdat(ドミニク・ドダ)(コレットの祖母)
music: Haydn, String Quartet Op.76 No.3 "Kaiser" 2rd movement.
production: SAARLÄNDISCHER RUNDFUNK, Pete Brugger, Straub-Huillet, PIERRE GRISE, Martine Marignac
See (in Niconico Doga)
※テキストファイル置き場にスペイン語字幕srt/日本語字幕srt/仏日字幕(ニコニコ動画投稿者コメンデータ)の3本をまとめた書庫をアップロードしておきました。(2009.6.3)



・画面外の声(off(-)screen voice)をofv、画面内の声をv、声の担当者によってESAWDDと表記する。
・長い朗読箇所をばらばらにしたり、原文より細かく段落付けをあらたに加えることに抵抗を感じたため、できるだけまとまった分量を維持して文字を表示することにした。その代わりに、朗読の息継ぎやリズムの目安として[--'--]とそのときの時間を挿入した。
・映画作家によってテキストが修正や追加が加えられている箇所やその訳注には、[挿入文][原文→朗読文](※~)と示した。変更箇所は、動詞の時制、代名詞→人名や、抜粋部分ではわかりにくくなるような前後の文面で記されている内容を補っている箇所などであり、その語句選択などもテキストから逸脱しないように配慮されているようだ。
・ひとまとまりの朗読箇所のなかにありながら削られている箇所は抹消線で示す。こうした部分は朗読されていない。
・仏語テキストはフリーテキストのeBook版を使用した。()内のページ数は上記ebook版のもの。同様に、邦訳1に邦訳書のページ数を記す。
・邦訳1、邦訳2、邦訳3の三つを付す。一つ目は、本田訳の該当箇所を旧字旧仮名づかいから新字新仮名づかいに改めただけのもの。時制や訳し方に難が見られる箇所が多い。二つ目は細川晋が本田喜代治訳『コレット・ボドッシュ』をもとに修正し『ストローブ=ユイレの映画』(アテネ・フランセ文化センター・神戸ファッション美術館 監修、フィルムアート社、1997)に収めたもの。一つ目と二つ目の文面は、横書き表示に即して、二桁の漢数字に応じて英数字に置き換えた。
 三つ目はかつて2chのストローブ&ユイレスレに転載されていたもの(現在は継続スレなし)。この文面はスレの流れに合わせて切り返した転載にしては訳文が素人離れしてこなれているうえに細川晋版とも異なった、より字幕に使いやすい短い文面のものなので、『ストローブ=ユイレの映画』刊行前後期にアテネフランセ文化センターで販売されていた冊子(2001,2年ごろにはそのような冊子はすでに売られていなかったし実際に私は確認していない)に記されていたものか、フィルムに付された日本語字幕の文章を関係者が個人的に所持しそれをてがかりにしたのではないかと思われる。たとえば日本で定期的に開催されているストローブ&ユイレ上映会で使われる『セザンヌ』の日本語字幕は丹生谷貴志によるものであり、必ずしも細川は字幕を担当していないので、このような字幕の差がある可能性もある。


4'56-5'10
AW(ofsv)
Le flot germain [, il a ] [monte→monté] sans cesse et menace de tout submerger. Au nombre de vingt-quatre mille (sans compter la garnison), les immigrés dominent électoralement les vingt mille indigènes. (p.3)
邦訳1 ドイツの波濤は絶えず押し寄せ、そしてあらゆるものを水に侵そうと脅かす。守備兵は別にしても2万4千の数で、移住のドイツ人は、選挙の場合2万の土着民を圧倒する。(p.32)

邦訳2 ドイツの波は絶えず押し寄せ、そしてあらゆるものを水に浸そうと脅かした。2万4千の(守備兵は別として)移民は選挙で地元民を圧倒した。

邦訳3 ドイツの波は執拗に一帯を襲撃した。守備隊を除く2万4千の移民は、選挙で地元メス住民を圧倒した。


5'41-6'10
AW(ofsv)
[ La grand’mère de Colette ] avait vu les malheurs du siège et les convulsions de la Journée du 20 octobre 1870, où fut affichée la Proclamation de Bazaine à l’armée du Rhin, [5'56] tandis que les régiments signaient des protestations pour demander à se battre, et que des bandes d’ouvriers et de bourgeois parcouraient les rues avec des drapeaux, sous le tocsin de tous les clochers. (p.30)
邦訳1 このメッツの老婦人は1970年10月20日の包囲の不運な有様と凄い動乱とを見ていた。あの時はライン軍と怪しい取引をやったバゼーヌの布告が貼り出されたのに対し、[5'56] 連隊は闘わんことを欲して抗議文に署名し、一方、労働者や一般市民の隊伍は、八方に鳴り響く警鐘の下、旗押し立てて街々を駆け廻ったのだった。(p.83)

邦訳2 コレットの祖母は包囲の不運な有様を見ていた。そして凄い動乱とを。1870年10月20日のことだ。あの時はライン軍と怪しい取引をやったバゼーヌの布告が貼り出されたのに対し、[5'56] フランスの連隊は戦うことを欲して抗議文に署名をし、一方、労働者やブルジョワの隊伍は、八方に鳴り響く警鐘の下、旗押し立てて街を駆け回ったのだった。

邦訳3 コレットの祖母は不運な包囲を体験した。1870年10月20日の動乱もだ。敵軍と取り引きした元帥の布告に対して、戦闘を望む兵士たちは抗議文に署名した。労働者やブルジョワの一団は、旗を掲げ、警鐘の鳴る街を駆けずりまわった。

 バゼーヌ: 普仏戦争においてメスで降伏したフランスの元帥(1811-88)。

6'41-7'16
AW(ofsv)
Un jour, [ils→→Colette et professeur Asmus à qui Madame Baudoche avait loué deux chambres garnies]
tombèrent [dans un numero d'Austrasie] sur un passage où l’on racontait qu’à l’époque d’Henri l’Oiseleur, Metz avait subi l’attraction germanique.
– Vous voyez, Mademoiselle, que vous avez été Allemande une fois, [7'05] fit le professeur avec une malice bonhomme.
Et il déclara ne pouvoir comprendre que des gens raisonnables perdissent leur temps à s’obstiner contre le fait accompli. (p.35)
邦訳1 或る日、彼等は、ヘンリ飼鳥王の時代にメッツがゲルマンのほうへ惹きつけられたことがあると書いてある文句に出会った。
 ――それ御覧なさい、お嬢さん、あなただって昔はドイツ人だったんじゃありませんか、[7'05]と学校の先生は意地悪くしかし人の人の好い調子で言った。
 そして、よく物のわかった人達が、出来てしまった事柄にいつまでもかかずらって、暇つぶしをするなどということはわけが解らないと言い放った。(p.91)

邦訳2 ある日、コレットとアスムス教授(ボドッシュ夫人は彼に家具付きの二部屋を貸していた)は、「オーストラジー」の記事を読んでいた。その一節には、ハインリヒ捕鳥王の時代にメスがゲルマンに向かって引き寄せられたことがあると書いてあった。「それご覧なさい、お嬢さん、あなただって昔はドイツ人だったんじゃありませんか」[7'05] と教授は意地悪く、しかし人のよい調子で言った。そして、よく物のわかった人たちが、既成事実にいつまでもかかずらって暇つぶしをするのは理解に苦しむと言い放った。

邦訳3 ある日、コレットは祖母の下宿人アスムス教授と地元紙の記事を読んだ。神聖ローマ帝国下のメスが、ゲルマンに吸収されたとの記述を…。「ほら、お嬢さんもドイツ人ですよ。その昔はね」彼はからかった。「分別ある人が併合をいつまでも根に持つのは理解に苦しむ」


 ハインリヒ捕鳥王(Henri l’Oiseleur):ハインリヒ1世(876-936)。東フランク王国の三代目王朝にあたるザクセン朝ドイツ王国の初代国王。その息子オットー1世(962-973)は962年にローマ教皇ヨハネス12世により古代ローマ帝国の継承者として戴冠し、初代皇帝となった。
 本作品の根深い背景については別記事に分離した。

7'28-7'35
ES(v)
– Je ne sais pas ce qu’ont pensé, il y a mille ans, les gens de Metz, mais je sais bien que je ne peux pas être une Allemande. (ibid.)
邦訳1 ――あたしは、千年も前に、メッツの人達が何を考えたかは知りません。けれども、自分がどうしたってドイツ人などではないということは、よく承知しております。(p.92)

邦訳2 「私は、千年も前に、メスの人たちが何を考えたかは知りません。けれども、自分がどうしたってドイツ人ではないということはよく承知しております」。

邦訳3 「千年前ならいざ知らず、私は断じてドイツ人ではありません」。


7'48-9'01
AW(ofsv)
A son retour, M. Asmus trouva une vive querelle ouverte dans Metz Une ordonnance du Président de la Lorraine venait de [supprimait] l’enseignement du français dans les écoles de quatre villages. Moyeuvre-Grande, [Fontoy], Knutange et Audun-le-Tiche. [7'59] Ces mesures [sont→ont été] fréquentes, et leur effet toujours pareil : elles réjouissent les immigrés, en même temps qu’elles indignent l’indigène. [8'10] Au grand scandale de ses collègues déjà fort agacés par l’enthousiasme qu’il rapportait de Nancy, M. Asmus soutint que détruire la langue française en Lorraine, c’était bel et bien détruire des intelligences. (p.59) [8'24]
邦訳1 アスムス君が帰って見ると、メッツには激しい喧嘩が始まっていた。ロレーヌの知事の命令が、モワユグル・グランド、フォントワ、クニュタンジュ、オダン・ル・ティシュ、この四ヶ村の学校でフランス語を教えることを禁止したのだ。[7'59] この手のやり方は毎度のことで、その効果はいつも同じである。すなわち、在住のドイツ人はこれを喜び、同時に土地の人は腹を立てるのだ。[8'10] アスムス君の同僚達は、彼がナンシーからひどく感激して帰って来たというので、それでもう随分いらいらしていたのであるのが、その彼等の憤慨するのもかまわず、アスムス君は、ロレーヌでフランス語を破壊するというのは、つまり知性をすっかり破壊してしまうことだと主張した。[8'24](pp.135-136)

邦訳2 ロレーヌの知事の命令が、モワユヴル=グランド、フォントワ、クニュタンジュ、オダン=ル=ティシュ、この四ヶ所の村の学校でフランス語を教えることを禁止したのだ。[7'59] この手のやり方は毎度のことで、その効果はいつも同じである。すなわち、在来のドイツ人はこれを喜び、同時に土地の人は腹を立てるのだ。[8'10] 同僚の憤慨するのも構わず、アスムス君は、ロレーヌでフランス語を破壊するというのは、つまり知性をすっかり破壊してしまうことだと主張した。[8'24]

邦訳3 知事の命令でモワユヴァル・グランドほか4つの村では、学校でフランス語の授業が禁じられた。おなじみの手口だ。結果も同じ。ドイツ人の移民は喜び、地元民は憤る。アスムスは同僚の憤慨するのもかまわず、ロレーヌでのフランス語の破壊は知性の破壊に等しいと主張した。

AW(ofsv)
– Prenons, disait-il, un enfant qui arrive à l’école... Vos maîtres refusent de lui apprendre à lire et â écrire le français, ils ne peuvent pourtant pas faire que l’allemand soit sa langue naturelle ! Voilà donc un estropié pour la vie. Où est pour nous le bénéfice ? Je voudrais bien qu’on me dise en quoi le pangermanisme profit de cet abêtissement local ? J’ai vu des devoirs rédigés dans notre langue par des petits indigènes ; ils ne présentaient aucun sens, n’étaient qu’une suite de mots ineptes. (ibid) [8'55]
[L’ordonnance fut rapportée.]
(※ p.77の台詞–Bonne nouvelle ! Nous triomphons ! L’ordonnance sur la suppression du français est rapportée.を地の文へと改め、まとめたものだろう)

邦訳1 ――或る子供が学校にやって来るとしよう、と彼は言った。君たちの先生が彼にフランス語の読み書きを教えることを拒否するとしても、しかも、ドイツ語が彼の自然な国語になるようにすることは到底できない! つまり生涯の片輪が出来上がるわけだ。どこにわれわれにとって利益があるのか? 僕は、汎ゲルマン主義が、この地方的愚昧を何に利用するのか、それを言ってもらいたいと思う。僕は土地の子供等が僕達の国語で綴った宿題を見たが、それらは何の意味も成さず、拙劣な語の連鎖に過ぎなかった。[8'55]
 命令は取り消された。(p.136)
(※ p.170の台詞「――吉報! 僕達は勝った! フランス語禁止の命令は取り消されました。」から用いた)

邦訳2「ある子供が学校にやって来るとしよう」と彼は言った。「君たちの先生が彼にフランス語の読み書きを教えることを拒否するとしても、しかも、ドイツ語が彼の自然な国語になるようにすることは到底できない! つまり生涯の片輪ができあがるわけだ。どこにわれわれにとって利益があるのか? 僕は土地の子供たちが僕達の言語で綴った宿題を見たが、それらは何の意味もなさず、拙劣な語の連続にすぎなかった」。[8'55]
 命令は取り消された。

邦訳3「学校に来る子供に対して先生がフランス語の読み書きを教えないとしても、ドイツ語に習熟するわけでもなく、言葉に不自由する。どこに利益があるのか? 生徒のドイツ語を読んだが、何の意味もなしてない。単なる単語の羅列だった」。
 命令は取り消された。


15'34-19'15
DD(ofsv)
– Regardez cette route, en bas, disait-elle, la route de Metz à Nancy. Nous y avons vu, ton grand-père et moi, des choses à peine croyables. C’était à la fin de septembre 1872, et l’on savait que ceux qui ne seraient pas partis le 1er octobre deviendraient Allemands. Tous auraient bien voulu s’en aller, mais quitter son pays, sa maison, ses champs, son commerce, c’est triste, [16'00] et beaucoup ne le pouvaient pas. Ton père disait qu’il fallait demeurer et qu’on serait bientôt délivré. C’était le conseil que donnait Monseigneur Dupont des Loges. Et puis la famille de V… nous suppliait de rester, à cause du château et des terres. [16'17] Quand arriva le dernier jour, une foule de personnes se décidèrent tout à coup. Une vraie contagion, une folie. Dans les gares, pour prendre un billet, il fallait faire la queue des heures entières. [16'34] Je connais des commerçants qui ont laissé leurs boutiques à de simples jeunes filles. Croiriez-vous qu’à l’hospice de Gorze, des octogénaires abandonnaient leurs lits ! Mais les plus résolus étaient les jeunes gens, même les garçons de quinze ans. « Gardez vos champs, disaient-ils au père et à la mère ; nous serons manœuvres en France. » [16'52] C’était terrible pour le pays, quand ils partaient à travers les prés, par centaines et centaines. Et l’on prévoyait bien ce qui est arrivé, que les femmes, les années suivantes, devraient tenir la charrue. [17'06] Nous sommes montés, avec ton grand père, de Gorze jusqu’ici, et nous regardions tous ces gens qui s’en allaient vers l’Ouest. A perte de vue, les voitures de déménagement se touchaient, les hommes conduisant à la main leurs chevaux, et les femmes assises avec les enfants au milieu du mobilier. [17'25] Des malheureux poussaient leur avoir dans des brouettes. De Metz à la frontière, il y avait un encombrement, comme à Paris dans les rues. [17'35] Vous n’auriez pas entendu une chanson, tout le monde était trop triste, mais, par intervalles, des voix nous arrivaient qui criaient : « Vive la France ! » Les gendarmes, ni personne des Allemands n’osaient rien dire ; ils regardaient avec stupeur toute la Lorraine s’en aller. [17'53] Au soir, le défilé s’arrêtait ; on dételait les chevaux ; on veillait jusqu’au matin dans les voitures auprès des villages, à Dornot, à Corny, à Novéant. [18'05] Nous sommes descendus, comme tout le monde, pour offrir nos services à ces pauvres camps volants. On leur demandait : « Où allez-vous ? » Beaucoup ne savaient que répondre : « En France... » Et quand ton grand-père leur disait : « Comment vivrez-vous ? »[18'19] Ils répétaient obstinément : « Nous ne voulons pas mourir Prussiens. »[18'25] Nous avons pleuré de les voir ainsi dans la nuit. C’était une pitié tous ces matelas, ce linge, ces meubles entassés pêle-mêle et déjà tout gâchés. Il paraît qu’en arrivant à Nancy, [18'41] ils s’asseyaient autour des fontaines, tandis qu’on leur construisait en hâte des baraquements sur les places. Mais leur nombre grossissait si fort qu’on craignit des rixes avec les Allemands, qui occupaient encore Nancy, [18'56] et l’on dirigea d’office sur Vesoul plusieurs trains de jeunes gens...[19'03] Maintenant, pour comprendre ce qu’il est parti de monde, sachez qu’à Metz, où nous étions cinquante mille, nous ne nous sommes plus trouvés que trente mille après le premier octobre...[19'15] (pp.84-85)
邦訳1 ――あの、向うの街道を御覧、と彼女は言った、メッツからナンシーに行く街道。あそこで、私たちは、つまりお前のおじいさんとわたしとは、とても信じられないような事柄を見たのです。それは1872年9月末のことだった。そして人々は、10月1日までにどこかへ出て行かない者はドイツ人になるのだということを知っていました。勿論誰しも出て行きたかったのです。けれど、自分の国や、家や、畑や、商売を棄てて行くというのは悲しいことです。[16'00] それで多くの人はそれができませんでした。お前のお父さんは言いました、これは踏み止まらなければならない、何れは自由身になれるだろうからと。デュポン・デ・ロジュ様も同じ忠告をなさったのです。それに、私たちは、V(ヴェー)家のほうからも、城館(シャトー)と土地のため居残ってくれるようにと頼まれました。[16'17] 最後の日が来た時、夥しい人人の一団が俄かに衆議一決してしまった。まるで伝染病か気違いを見たよう。停車場では、一枚の切符を求めるのに、何時間も長い行列を作らなければならなかった。[16'34] 私はほんの幼い娘達にその店を委して行った商人なども識っています。ゴルズの養老院で80歳の老人がその寝床を棄てて去ったと言ってもあなた方は信用するでしょうか! しかし、何と言っても、一番決心の堅かったのは若い人達です。15歳の少年までもがそうでした。≪あなた方の田畑を守って下さい、と彼等は父や母に言いました、僕達はフランスで働きます。≫ [16'52] 彼等が、牧場を横ぎって、何百人また何百人と出発した時、それはこの国にとって恐ろしい光景でした。そして、やがて何がやって来るかということも予め十分に判っていました。翌年からは、女達が鋤を取らねばならなかったのです。[17'06] わたし達は、お前のおじいさんと一緒に、ゴルズからここまで登って来ました。そして、西方に向って去り往いたあの人人をじっと眺めていました。見渡す限り、引越の車が続いて、男達は手でその馬を御し、女達は子供を連れて家具の中に座っていました。[17'25] 自分の持ち物を手車に載せて押して行く気の毒な人人もありました。メッツから国境まで、その雑沓の有様は、まるでパリの街中のようでした。[17'35] 歌声一つ聞えては来なかった。誰の心も余りに悲しかった。しかし、時時、人人の叫ぶ声がわたし達の耳に届くのです。≪フランス万歳!≫ 憲兵も、ドイツの人達も、誰一人何も言おうとはしませんでした。彼等は全ロレーヌが去って行くのを茫然として眺めていました。[17'53] 夕方になって、行列は停まり、人人は馬を解きました。村に近いところ、ドルノ、やコルニーや、ノヴェアンで、朝まで車に夜明かしをしたのです。[18'05] わたし達は、みんなと同じように、これら気の毒な無宿の人人に分相応のお世話をしようと、下りて行きました。≪どこへ行きますか?≫とわたし達は彼等に尋ねました。多くの者は何と答えてよいか判りませんでした。≪フランスへ……≫とただそれだけ。そして、お前のおじいさんが≪これからさきどうして生きて行けますか≫と言った時、[18'19]彼等は頑固に繰り返しました、≪わたし共はプロシヤ人になって死にたくはないのです。≫[18'25] わたし達は彼等がこのような状態で夜を過すのを見て泣きました。乱雑に積み上げられて、もうすっかりくしゃくしゃになっている・あの蒲団や下着や家具の類は、どれもこれも皆哀れな有様だった。ナンシーに着くと、[18'41] みんなは噴泉の周りに座り、そうして広場広場には大急ぎで彼等のためバラックが造られたらしい。けれど、その人数がだんだん殖えて行ったので、まだナンシーを占領していたドイツ人との間に悶着が起りはしないかという心配がありました。[18'56] そこで当局は青年達の行列を幾つもヴズールの方へと引っぱって行きました。……[19'03] 一体、どのくらいの人数が出ていったと思いますか? 以前は5万人もあったメッツの市(まち)に、何と10日1日以後はもはや3万人しか居なくなったのです。……[19'15]」(pp.183-186)

邦訳2「あの、向こうの街道をご覧、メスからナンシーに行く街道。あそこで、私たちは、つまりお前のおじいさんと私とは、とても信じられないような事柄を見てきたのです。それは1872年9月末のことだった。そして人々は、10月1日までにどこかへ出て行かない者はドイツ人になるのだということを知っていました。もちろん誰しも出て行きたかったのです。けれど、自分の国や、家や、畑や、商売を棄てて行くというのは悲しいことです。[16'00] それで多くの人はそれができませんでした。お前のお父さんはこれは踏み止まらねばならない、いずれは自由の身になるだろうからと言いました。デュポン・デ・ロージュ様も同じ忠告をなさったのです。それに、私たちは、V(ヴェー)家のほうからも、城館(シャトー)と土地のため居残ってくれるようにと頼まれました。[16'17] 最後の日が来た時、夥しい人々の一団がにわかに衆議一決してしまった。まるで伝染病か気違いを見たよう。停車場では、一枚の切符を求めるのに、何時間も長い行列を作らなければならなかった。[16'34] 私はほんの幼い娘たちにその店を託して行った商人なども知っています。ゴルズの養老院で80歳の老人がその寝床を棄てて行ったと言ってもあなた方は信用するでしょうか!しかし、何と言っても、一番決心の堅かったのは若い人たちです。15歳の少年までもがそうでした。『あなた方の田畑を守って下さい』と彼らは父母に言いました。『僕達はフランスで働きます』。[16'52] 彼らが牧場を横切って、何百人また何百人と出発した時、それはこの国にとって恐ろしい光景でした。そして、やがて何がやって来るかということもあらかじめ十分にわかっていました。翌年からは、女たちが鋤を取らねばならなかったのです。[17'06] 私たちは、お前のおじいさんと一緒に、ゴルズからここまで登ってきました。そして、西方に向かって去り行ったあの人々をじっと眺めていました。見渡すかぎり、引越の車が続いて、男たちは手でその馬を御し、女たちは子供を連れて家具の中に座っていました。[17'25] 自分の持ち物を手車に載せて押して行く気の毒な人々もありました。メスから国境まで、その雑踏の有様は、まるでパリの街中のようでした。[17'35] 歌声ひとつ聞こえてはこなかった。誰の心もあまりに悲しかった。しかし、時々、人々の叫ぶ声が私たちの耳に届くのです。『フランス万歳!』。憲兵も、ドイツの人たちも、誰一人何も言おうとはしませんでした。彼らは全ロレーヌが去っていくのを呆然として眺めていました。[17'53] 夕方になって、行列は止まり、人々は馬を解きました。村に近いところ、ドルノやコルニーやノヴェアンで、朝まで車で夜明かしをしたのです。[18'05] 私たちは、みんなと同じように、これら気の毒な人々に分相応のお世話をしようと下りていきました。『どこへ行きますか?』と私たちは彼らに尋ねました。多くの者は何と答えてよいか判りませんでした。『フランスへ……』とただそれだけ。そして、お前のおじいさんが『これから先どうして生きて行けますか』と言った時、[18'19]彼らは頑固に繰り返しました。『私どもはプロイセン人になって死にたくはないのです』。[18'25] 私たちは彼らがこのような状態で夜を過ごすのを見て泣きました。乱雑に積み上げられて、もうすっかりくしゃくしゃになっているあのマットレスや下着や家具の類は、どれもこれもみな哀れな有様だった。ナンシーに着くと、[18'41] みんなは噴泉の周りに座り、そうして広場広場には大急ぎで彼らのためバラックが作られたらしい。けれど、その人数がだんだん増えていったので、まだナンシーを占領していたドイツ人との間に悶着が起こりはしないかという心配がありました。[18'56] そこで当局は青年たちの行列をいくつもヴズールの方へと引っぱって行きました……。[19'03] 一体、どのくらいの人数が出ていったと思いますか? 以前は5万人いたメス市になんと10日1日以後はもはや3万人しかいなくなったのです……。[19'15]

邦訳3「ナンシーへ行く道よ。おじいさんと私はあそこで見たの。一大事件だった。1872年9月末のことだった。翌日までに去らないとドイツ人になる。誰もが脱出したかった。けれど家や畑や商売を捨てるのは悲しい。残る人が多かった。お前のお父さんは言った。『今は辛抱のときだ』司教さまも同じ意見だった。V家からも城館と土地のため居残るように頼まれた。最後の日がきたとき、おびただしい人々が伝染病のように行動を共にした。駅では何時間も行列が絶えなかった。幼い娘に店を託した商人もいたわ。ゴルズの養老院では、お年寄りが別れを告げ、若者に至っては父母に田畑を守るよう頼み、宣言した。『フランスで働く』と。野原を横切る行列は延々と続くの。恐ろしい光景よ。国の将来も定まった。翌年から女たちが鋤を取ったの。おじいさんと高台に登り、西へ去る人々を眺め続けた。見渡す限り引越しの車が続いていた。男たちは馬を御し、女子供は家具と共に車の中。手押し車を押す人もいたわ。メスから国境までその混雑ぶりはパリも顔負け。唄声も聞こえず、悲しすぎる心に響くのは『フランス万歳!』の大声。憲兵もドイツ人も無言のまま。全ロレーヌが去るのを眺めるばかり。夕方に行列は止まり、馬も解かれた。村に近いドルノやコルニーやノヴェアンで野宿。私たちはお手伝いするため野営地に下ったの。行き先を尋ねると『フランス』との答え。『生活のあては?』と聞くと、『プロセイン人としては死なぬ』との答え。こうして夜を過ごす彼らを見て泣いたわ。マットレスや下着類や家具の山が惨めだった。ナンシー到着の後は、噴水を囲んで広場ごとに仮設小屋が作られた。その人数が増えるとドイツ進駐軍との衝突が懸念された。当局は列をなす若者を県都に移住させた。何人の人が流出したと思う? 5万人だったメス市の人口は、10月1日以後、3万人になったの」


 デュポン・デ・ロージュ: メスの司教(1804-86)。普仏戦争でアルザス=ロレーヌ地方がドイツに併合された後も親仏派だった。
 ヴズール(Vesoul):   オート・ソーヌ県の首都

19'37-21'00
AW(ofsv)
Le 7 septembre 1871, quatre mois après le traité de Francfort, la ville, encore pleine de sa population française, mais prosternée dans la douleur et qui paraissait morte, se leva, d’un seul mouvement, à huit heures et demie du matin. Aux appels du glas de la cathédrale, les quarante mille Messins s’en allèrent dans leurs maisons de prière, ceux-ci chanter à la cathédrale la messe des morts, ceux-là réciter au temple le cantique de l’exil de Babylone, et ces autres à la synagogue leurs psaumes de deuil. Puis, tous les clochers de la ville sonnant, ils se rangèrent, place d’Armes, derrière leurs prêtres et leurs magistrats, et se rendirent, la croix catholique en tête, au milieu de la stupeur des Allemands, à Chambières, devant le monument que les femmes de Metz offraient aux soldats français morts dans les batailles du siège. (p.97) [20'40] « Jour de colère, jour de larmes… » (p.102) [20'43] « Juge vengeur et juste, accordez-moi remise... Délivrez-nous du lac profond où nous avons glissé ; délivrez-nous de la gueule du lion ; que le Tartare ne nous absorbe pas ; que nous ne tombions pas dans la nuit... » (ibid.) [21'00]
邦訳1 1871年9月7日、フランクフルト条約の4ヶ月後、まだフランスの人口に充ち満ちてはいたが、しかし哀しみに打ち伏して死んだように見えていたこの市(まち)が、朝の8時半を期して一挙に起き上った。本寺で鳴らす鐘の音に、4万にも及ぶメッツ人は、てんでにその祈りの家に出かけた。或る者達は司教本寺で死者の弥撒を唱え、他の者達はキリスト教会でバビロン追放の頌歌を、また別の者達はユダヤ教会で哀悼の聖詩を誦するのだった。それから、全市の鐘楼が鳴り響き、彼等はアルムの広場で、司祭や奉行などのうしろに整列した。そして、カトリックの十字架を先頭に、茫然と呆然と見送るドイツ人たちの中を、シャンビエールへ、つまりメッツの婦人達が攻囲戦で戦死のフランス兵達に捧げた記念塔の前へとやってきた。[20'40] ≪怒りの日、涙の日……≫ (p.216) [20'43] ≪いみじくも正しき審判者よ、我に猶予を与え給え。……我等が転落したる底深き湖水より我等を救いたまえ。獅子の口より我等を救い給え。地獄が我等を吸い込まざらんことを。夜の闇に我等が陥らざらんことを。……≫(ibid.)[21'00]

邦訳2 1871年9月7日、フランクフルト条約の4ヶ月後、まだフランスの人口に充ち満ちてはいたが、しかし悲しみに打ち伏して死んだように見えていたこの市が、朝の8時半を期して一挙に立ち上がった。大聖堂で鳴らす鐘の音に、4万にも及ぶメス人は、てんでにその祈りの家に出かけた。ある者たちは大聖堂で死者のミサを唱え、他の者たちは教会堂でバビロン追放の頌歌を、また別の者たちはシナゴーグで哀悼の詩編を暗唱するのだった。それから、全市の鐘楼が鳴り響き、彼らはアルムの広場で、司祭や行政官などの後ろに整列し、呆然と見送るドイツ人たちの中を、シャンビエールへ、つまりメスの婦人たちが攻囲戦で戦死のフランス兵たちに捧げた記念塔の前へとやってきた。[20'40] 「怒りの日、涙の日……、[20'43] いみじくも正しき審判者よ、われに猶予を与えたまえ……。われらが磊落したる底深き湖水よりわれらを救いたまえ。獅子の口よりわれらを救いたまえ。地獄がわれらを吸い込まざらんことを。夜の闇にわれらが陥らざらんことを……」。[21'00]

邦訳3 フランクフルト条約の4か月後の9月7日、この市の多くのフランス人は悲嘆に暮れていたが、朝の8時半一挙に立ち上がった。大聖堂の鐘の音に4万人のメス人は、祈りの家に出かけていった。大聖堂では死者のミサ、教会堂で賛歌が唱えられる一方、シナゴーグでは哀悼の詩篇の暗唱。鐘が一斉に鳴らされ、人々はアルム広場で司祭のあとに整列した。唖然と見守るドイツ人の中をシャンピエールの戦没フランス兵に捧げられていた記念塔前まで歩いた。「怒りの日、涙の日。審判者よ、われに猶予を、われらを救いたまえ。湖底や獅子の口より地獄に堕ちぬことを願う。闇に堕ちぬよう」


21'05-21'20
AW(ofsv)
Durant un mois, [elle→Colette] s’est demandé : « Après trente-cinq ans, [21'10] est-il excusable d’épouser un Allemand ? » Mais aujourd’hui...
(※ 原文では文章がさらに「Mais aujourd’hui, trêve de dialectique : elle voit bien que le temps écoulé ne fait pas une excuse et que les trente-cinq années ne sont que le trop long délai depuis lequel les héros attendent une réparation. Leurs ombres l’effleurent, la surveillent.」と続いているが、ストローブ&ユイレはここで切断している)
邦訳1 1ヶ月間、彼女は自分に尋ねてみたのだった。≪35年の後、[21'10] ドイツ人と結婚することは許さるべきであろうか?≫ しかしきょうは、(後略)(p.218)
(※ 原文では文章がさらに「しかし今日は、そんな弁証法も無用である。過ぎ去った時などは弁解にならない、また、35年の歳月は英雄達が再起の機会を待っている余りにも長い猶予期間にほかならない、ということを彼女ははっきりと見たのだ。彼等の影が彼女を掠って通り、彼女を監視する。」と続いているが、ストローブ&ユイレはここで切断している)

邦訳2 1ヶ月間、コレットは自分に尋ねてみたのだった。「35年の後、[21'10] ドイツ人と結婚することは許されるべきだろうか?」 しかし今日は……。

邦訳3 1ヶ月間、コレットは自問した。「ドイツ人と結婚していいの?」 しかし今日は…。

21'20-21'31
ES(v)
[Monsieur le docteur,→Professeur Asmus, ] dit la jeune fille, je ne peux pas vous épouser. Je vous estime, je vous garderai une grande amitié ; je vous remercie pour le bien que vous pensez de nous. [21'28] Ne m’en veuillez pas.
邦訳1 ――先生、と若い娘が言う、あたしはあなたと一緒になるわけには行きません。あたしはあなたを尊敬します。これからもあなたに対しては温い友情を失わないでしょう。あなたがあたし達に尽して下すった御親切に対してはありがたくお礼を申し上げます。[21'28] どうかお腹を立てないで下さい。(p.221)

邦訳2「アスムス教授、私はあなたと一緒になるわけにはいきません。私はあなたを尊敬します。これからもあなたに対しては温かい友情を失わないでしょう。あなたが私たちにつくしてくださったご親切に対してはありがたくお礼を申し上げます。[21'28]どうかお怒りにならないで下さい」。

邦訳3「アスムス教授、結婚はできません。尊敬の念は変わりません。ご親切には感謝します。お許しください」。