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チャット部屋: http://digicha.jp/tel_que/chat_s_view.html 連絡先: ceintureverte_at_gmail.com(_at_を@に置き換える) 「本棚写真/本好きへの100の質問回答」が一番自己紹介になってるのだと気づいた。
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2008年4月18日金曜日

ジェラール・フロマンジェ監督/ゴダール撮影「ルージュ フィルムトラクト1968番」(1968)

フロマンジェ「ルージュ」
(Rogue, film tract No.1968, 3mins, silent, 1968)
See(in Niconico Doga)

release(公開): showed noncommercially at student rally, factory during the strike and so on in 1968.(1968年に学生集会や、ストライキ中の工場や、他の現場で非商業的に上映)
shooting period(撮影):May or June 1968(1968年5月または6月)
director: Gérard Fromanger
director of photography: Jean-Luc Godard
note(written by Sally Shafto): after that, Fromanger directed other version with Marin Karmitz. (フロマンジェは続いて、マラン・カルミッツと他のヴァージョンを撮った。)
Above note is written referring to filmography (ed. by Sally Shafto) in Colin MaCcabe’s Godard(Bloomsbury, 2003).(上記のスタッフリストはコリン・マッケイブ『ゴダール伝』(堀潤之訳、みすず書房、2007)巻末フィルモグラフィー(サリー・シャフト編)を参考にした。)

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Adduces recital there: Gérard Fromanger, “Il faut créer un Vietnam dans chaques musée du monde”, Jeune, dure et pure! Une histoire du cinéma d’avant-garde et expérimental en France, eds., Nicoles Brenez and Christian Lebrat (Paris and Milan: Cinémathèque Française and Mazzotta, 2001), pp.336-338.
Perhaps its article have translated in English and can read in this article of Rouge (no.1, 2003).
(フィルモグラフィで挙げられているフロマンジェの記事「世界の美術館のそれぞれにおいてヴェトナムを作らなきゃいけない」、ニコル・ブレズ、クリスチャン・レブラ編『若く、しぶとく、純粋な! フランスにおける前衛映画史・実験映画史』(シネマテーク・フランセーズ&マゾッタ、2001)pp.336-338)は英語版をRouge(no.1, 2003)の記事で読むことができる。
Following Japanese sentence is Japanese translation from eng.trans.aricle.(以下はその英訳からの重訳である。)

凡例
・イタリック体は太文字で表記した。
・荒っぽく訳したり意訳したりしたので箇所に応じて原文を[]で示す。
・〔〕は別の訳文を足して補った箇所。
・英訳ではひとまとまりになってる文章を段落づけして細かく分けた。
注記
・たぶんフロマンジェのインタヴューなのだろう。採録者、聞き手がRougeの方の記事では載っていないが。
・語り手「私」=フロマンジェ、「彼」=ゴダールを指す。
・所要時間約2時間の超ざっくばらんな訳。下手くそだったり単調だったり口調が不整合だったりしても気にしないこと。

「ルージュ」(1968)
ジェラール・フロマンジェは1968年5月にジャン=リュック・ゴダールと出会った…

 私たちはすでに彼のところで会って話す段取りを取っていた(そのとき彼が住んでいたのはサン=ジャック通りの二世代住宅だ)。彼の部屋でベッドと向かい合わせに、私たちはいっしょに座り、数時間にわたって沈黙のままにそこにいた。一言も口を利かずにね。彼はその間何もせず、何も言わなかった。彼はただただそこに座っていたんだ。

 長き数時間が経過した後、彼は私にこう尋ねた。「どうするんだい?」 私はその言葉を私のフラグ・ペインティングについて尋ねているのだと理解し、描く過程を彼に説明し始めた。彼はペンと紙を探しにいき、私が言ったことすべてをノートにとった。つまり、キャンバスに絵具を置くこと[paints]、筆の動きで筆触を出すこと[brushes]、絵具の鉢を使うこと[bowls]について。それから5分の間私を家に残して出かけ、これらすべての素材[materials]を揃えて戻ってきた! 彼はこう言う。「で、どうするんだい?」 私は旗を描くように言い、彼は三つの長方形を描いたのだった。まず青を置き、次に白を置き(といってもキャンバスは白いので既にそこにあるんだが)、そして三つ目に赤を置くはずだったのだが、彼は子供のようにくすくすと笑いながら、物語をしながら[telling stories]、自分でやった。そうしてるのがあんまり楽しかったんだろう。それから私に「これでいいかな、どうしよう?」と尋ね、それから本番[real work]を始めた。

 彼がずいぶんたっぷり赤を置いているので、私は、これじゃ白と青のところまで溢れちゃうなぁ、全部赤になっちゃうぞ、あるいは、薄い塗りになっちゃうな、とか思っていた。絵具を上に垂らしたりするつもりなのかな、それとも下に垂らすつもりかもしれない、その垂れるラインを短くするつもりか、いや、長くするつもりなのかな、とかね。それから彼は私に普段の私の制作方法ならこれからどうやるんだと尋ねたので、絵具が上に垂れるようにすることと、激しくはあるが量感を出さないようにするということと、にもかかわらず鮮明に、生き生きと、動きのあるものにするということを指示した。すばやく準備してからキャンバスを持ち上げるんだよ[turn the painting]と言うと、「あえてそれをやらないでみよう![I wouldn't dare try it!]」と返してきた。私はこう断言した、「やらなきゃだめだって。やり方は教えるからさ[You must, and I will help guiding you.]」。

 それから彼は赤い長方形の部分を持ち上げ、私はイメージが姿を現してくるように仕向けた。その現われを彼はあまりにすばらしく思ったらしく、彼は私が止めるまでずっとそれを見詰めていた。「こりゃすごい、すごいな。でも知りたいな。君はこれをフィルムに撮ってみようと思ったことはないの?」 私はそのアイデアに異論はなかったが、映画のカメラで作品を撮る方法がわからなかった。じゃあその役目はぼくがやって手伝おうじゃないか、とジャン=リュックは言った。その次の日には撮影を始め、素材として私の作品のポスターを使って撮ろうと彼は望んだ。これがその後2年続く友情の始まりなんだ。


 結局のところ、ジャン=リュックは私から絵の描き方を教えてほしかったんだろう。6ヶ月のあいだ、私は彼に脚本で使うための素描を手伝ったし、それは最高の経験だった。素描というものが自然に存在するんじゃなくて、完全に抽象的なものだってことを彼はすぐさま把握した。ペンで紙の上に何かを創りあげ、それを実在性と関係付ける〔真に迫らせる〕こと[To create something with a pen on paper in relation to reality]は、実在性についての視点を持つことなんだ。観察するというのは、人が見るはずのものを再生産することじゃなくて、実在性において反省することだ。6ヶ月経って彼は私にこう言った。「よし、これで終わった。もう十分だ」。ジャン=リュックとの間の絵を描くセッションについて私が今思い出す特別な記憶がある。何らかの単純なものは(だって私たちがそれを見ているのだから)素描になりうるだってことを彼が把握した瞬間、すべてが(電話、亀裂、幸福が[a telephone, a crack, happiness])ある意味で「描かれたもの」でもあるんだと彼は理解したんだ。それは本当に魅力的なことで――子供じみていて、驚くべきことだった。私は彼に心底驚かされたんだ。彼の知性と感性――そして柔軟さにね。

『若く、しぶとく、純粋な! フランスにおける前衛映画史・実験映画史』(シネマテーク・フランセーズ&マゾッタ、2001)から抜粋

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 これまでフロマンジェが邦語で言及された例はあまり知らないが、とりあえずゴダール絡みで言及された例で、ネットで読めるもの:
浅田彰「歴史の授業」 (2001年に『ベトナムから遠く離れて』『北緯17度』『東風』が上映された際のパンフ掲載文章で、ざっとゴダールの60-70年代を振り返ったもの)
堀潤之「世界ゴダール会議「フォー・エヴァー・ゴダール」に参加して」 (2001年にテート・モダンで開かれたゴダール国際会議に関するレヴュー[英語で既に書籍版は刊行されている]。「ルージュ」も上映されたらしいが、この記事では堀は『赤』と作品タイトルを記している。)

 なお、60-70年代の雰囲気を示すものとして、ドゥルーズやフーコーの写真肖像を下地にフロマンジェがカラフルなペインティングを施した作品が紹介されることもあり、絵についてよく知らない人でもこの作品は書籍などで見たことのある人もいるんじゃないだろうか。ちなみに、『ユリイカ』1985年10月号には「小特集=フロマンジェ」があり、ドゥルーズ「冷たいものと熱いもの」(篠原資明訳[現在は『無人島』下巻(1969-1974)の松葉祥一訳で読むことができる])、ガタリ『夜/昼』(丹生谷貴志訳)、フロマンジェ「インタヴュー 線と色彩の旅」(聞き手&訳:浅田彰)を掲載している。

2008年4月12日土曜日

雑記12 文章を書くとき

 チャットの方でメモのように書くような内容なんだけど、ここに書いてみる。

 記事作成という枠で文章を書くときに迷っているのは、どういう層を想定するかだ。かつて私はごく数人と2年近くにわたってチャットで議論し、そのログを編集し、配列し直して再検討し、さらにどう考えるかを間をおいて継続させて掘り起こしていた。そのサイト(以下「サイト-1」、本サイトを「サイト+1」と略記する)は、チャット部屋/簡単なBBS(teacupbbs)/編集版置き場BBS(otdbbs)の三層で構成されており、メインはチャット部屋だった。サイト-1は、非公開と称し閲覧を禁じながら閲覧・参加にパスワード制限はせず、一見さんの参加を拒否する主旨を明確にしていたがメールアドレスをトップページに記載するという両義的な入り口をもっていたが(つまり意欲的な人がいれば、主旨とは裏腹にその人次第で歓迎する可能性があった。ただし実際には、幸か不幸かそのようには進まなかった)、すでに1,2年以上議論や作品読解の姿勢を互いに知っており、その上である程度の合意や前提が成り立ってもいたメンバー間で話し合っていたのだった。こうした性質が絡み合い、さまざまな利益も被ってもいた。すぐに思いつく点で言うと、たとえば
・非公開→未整理なままの記述や創案の書き出しがやれた
・非公開かつサイト設計上公開→メンバー以外から見られることがつねにつきまとったためメッセのPMとは異なる緊張が作用した
・ある程度の文脈の共有→発言が一挙に圧縮された文体および論理構成で荒削りでありながらも成立した(ただし注記の付加やテキストに沿うことがやや不足しがちにもなった) 

 現在の本サイト(サイト+1)は、サイト-1の設計と大きく異なっている。メインが記事置き場であり、チャット部屋がサブでありメモに相当している。これは、前者をデータベース、後者を通常のブログ的な発言として最初想定していたからだが、中長期的には前者をデータベースのみにしていくつもりは無かった。そのための「説明文」置き場「など」という名前であって、記述的に何かを論じているかぎりではその文章が何について論じていようが「説明文」とこじつけることができるし、説明文とは言いがたい文章であれ「など」でごまかすこともできる。つまり、サイト名はほとんど何も意味せず、「ここには文章がある」ことぐらいしか意味してない。
 そうした意味では何の文章であってもいいサイトでもあるが、サイト+1はチャットと大きく異なり、一人の人間の作成文章でまずやらなくてはならないことになった。したがって、かつてのサイト-1とは文章量や圧縮規模が全然変わってしまい、結果、穏便にかつ保守的に文献整理やその充実を目指すような方向に流れてしまっている。これは、どういう書き方をするのかを構成しあぐねてしまった結果でもある。
 書き方の構成について迷ったのはいくつかの線で生じている。これをサイト-1と比較しながら書いてみるとこうなる。

・公開的/公式的の面
 サイト-1はサイト設計上、公開的でありながら非公開を称し、人から読まれるだろう可能性の緊張に対して、非公式的なやや乱暴な主張・口調もとりながらも、ある種の公共性を意識していた。
 サイト+1は、サイト設計上と言うよりも合法性/違法性への配慮の面で、公式的なサイトにはしようがなく、かつ、動画に対しての付属的な…二次的なサイトという位置があった。それゆえ、公式的、公共的な意識が中立的な立場(を装う立場)からの指摘文章に傾きがちとなった。こうした構造上、論考が多く記される類のブログやHPとは大きく異なる場所になってしまっている。

・発言・文章と複数性の面、動機付けの面
 チャット部屋の発言の進行形態の視点を維持してサイト+1を見ると、一旦出された論点や問題設定に対してどのような反論や介入がなされうるのかが気になってしまう。そして、多くの論考系のブログはそうした反論や介入の可能性が乏しいことを痛感した上で、論考としてその根拠付け・書法を充実化させる傾向がある。あるいは、読書メモやレジュメに近いかたちをとりながら論の進行を牽引するかたちになる。(実際、私自身にも興味をもついくつかのブログなどがあるが、私はそこでコメントすることはまずしないからだ。思うに、一定以上の勉強や試行錯誤をしてきた層ほど、議論介入的なコメントをおこないそのサイトに介入することは少ないのだろう。)
 しかし、私がとりたいのはそうした充実化の路線ではない。荒削りな状態をある程度維持しながら書き続けること、考え続けていることのままでいかに書きようがあるのか、ということだったからだ。そのため、コメントや返答があろうがなかろうが持続的に書き続け、かつ、自分にとって書く動機付けが得られる書き方をどう作るかが重要になっている。当初から日記もレヴューもやるつもりがなかったため、どういう設定で書くのかを作る必要に迫られている。
 ただし、この要請が生じるのは、あくまで最初に「書く必要がある」ということにするかぎりであって、別に書くこともなく考え続けていてもそれはそれでいい。なぜ「書く必要がある」(あるいはそのかたちでサイトを利用する必要がある)ことにしたのか。それは、サイト-1の頃の動機付けと同じで、書き、自分の論点を明確にすることで自分の文章が自分を追い立てるようになり、可能性と限界の線引きやその問い方をより明確に向かうようになるからだ。これはサイト-1の誕生当時にあった発想ではなかったが、1年近く経ったときに痛感したメリットであり、その後のサイト-1の継続の動機付けになっていったものだ。

・私性の扱い
 公共性のあること、これは、論点や議論においてある程度の鋭利さを含むであろうという見込みに由来する判断だが、それは同時に私的な、個人的な着眼点から出発することが多い。その意味で「やや乱暴な」論旨でもあったわけだ。この性質を維持しながら書き続けるためには、読者層をある程度無視する、あるいは、啓蒙的な配慮をあまり盛り込まない方が良い。啓蒙的であろうとするたびに、人は後手後手に回り、前例を踏襲したり前例的な議論の充実した参照・注記をしようとしてしまう。また、読者層を無視することは、単に独り言を言うこととも違う。論点にある程度の妥当性、一般性があることを信じながら、前例や慣習を無視して、荒唐無稽にも聞こえかねない論点を引き伸ばし、継承し、更新するとき、読者層の想定が足を引っ張ることがあるからだ。その意味では、厳密に言うと、読者層は想定しないというのではなく、ある限定された層を、その存在の有無は配慮せずに念頭に置くことになるだろう。
 その結果、ある程度の私性、個人的な関心であることを覚悟する必要がある。問題は、チャットのように(応答の時間差や応答可能性は必ずしも保証されないとはいえ)相手が現前するわけではない、文章作成という場にあって、どのような場面を自らに対して現前させて賦活されるように自分を持っていくかにあるだろう。

・文体について
 上のように文章に書いて嫌というほどに痛感するのは、語尾操作や構文間の関係などにおいて「文体」を私が形成しながら書いているという実感に悩まされていることである。サイト-1の特徴をメインをチャット部屋にしていたと上で書いたが、そこでの発言口調は正確には口語的なものではなかった。かといってこの記事のような口調でもなかった。思い出すかぎりで言うと、私は当時、文体を形成してしまうことに対して強烈な嫌悪感があった。当時使っていたチャットサイトはデジチャットだから、サイト+1付属の部屋と大きくは変わらないし、一回の発言量制限も同じくらいだったが、図表を書くようにして発言していたように思う。事前に書いた文章を圧縮しながら発言スペースに入れていくといった作業をやっていたこともあった。発話者が現前するわけでもなく、文章がスタイルとしても現前せず、論理構成がそのままに動き出すような文章を書きたいと思っていた。かといってスクリプト言語のような書法とも大きく異なっており、奇妙な独断性と粘り強い再考を繰り返そうとしていた。「文章がスタイルとしても現前」しない、にもかかわらず文章として書くことというのは、思うに、読みの過程や思考の過程にかぎりなく文章を近づけていこうという意識だったのだろう。論文・書籍を読み進めているときに紙の余白に書き留めるような文章のままに必要十分な密度にしていくように求めていたように思うし、レジュメというものを独特の意味合いで好んでいた。その「レジュメ」と称していたものは、読みや過程そのものを圧縮して論理的な文章として構成しなおす感触を指していたのだろう。
 上の記事の内容は、当時ならばおそらく4~5分の1の文章量で書いていたはずだ。私が日記的な文章を嫌っているのは、内容の短期性や見込める持続性の乏しさからだけではなく、文章と提示する(現前させる)論理構成の関係についての感覚からもきている。この感度を維持しつつどのような文体を作るかという課題がある。ゆえに、書き出すための自己設定は文体にまで及んでいるのだろう。当時に比べると、私はずいぶん言い訳がましく長く書くようになったと思う。より必要最低限の短文で書く必要がある。

 こうして、自己設定と短中期的な課題の扱いにおいて、私はサイト-1のもっていたものをさらに厳しい条件のもとでやり直し(翻訳)をやろうすること。それが現在考えていることだ。一人で書き続けながら、日記にも書評など各種レヴューにもならず、かつ、議論を(書く・通すことが固有の高コスト性と高カウント性をもちうる)論文のスタイルのように充実化させる方針をとらないということ。おそらく、チャット/BBS/チャット編集版という三層の時間性と現前/再現前の設計をもったサイト-1の後で考えられる可能性を継承したサイト+1の進行設定はこうしたものになる。

 (当記事は序文のようなものでしかないだろう。上記の案が私自身の膂力と持続力の不足のために実現できずに終わることは大いにありうる。しかし、これを書いておくことにした。その理由は、まずは、「自分を追い立てるようにな」る文章を残しておくためにである。と同時に、私はここで別段書くほどのことでもない話をしているのだろう。)