「ハイデガーの発言 Part1」
凡例
・以下の邦訳はMarKus Semmの英訳からの重訳である。
Following Japanse sentences is translated from English translation.
・ドイツ語の聞き取りはできなかったので、英訳字幕のみを採録した。
Because I cannot listen German, transcription is from English Subtitle.
・Original ver.(no sub.)/字幕なしオリジナル版:Martin Heidegger. Teil 1. German(in Youtube)
Eng.Sub.ver./英訳字幕つき動画:Heidegger Speaks. Part 1. English subtitled(in Youtube)
Jap.sub.ver./邦訳字幕つき動画:ハイデガーの発言 Part1(in Niconico Doga)
[Caution: To see Niconico Doga need Getting its acount.]
0’08-0’38
The notion of language as an instrument of information urges nowadays to the extreme. The relation of human being(s) to language is undergoing a transformation the consequences which we are not yet ready to face. The ongoing of this process cannot be stopped by direct intervention.
試訳1 今日、情報を運ぶ器具とみなすような言語の観念が極度に強いられている。人間存在の言語への関係とは、変質(変容)を経験すること(耐えること)であり、私たちがまだ直面する準備ができていない因果関係(結果)である。このプロセスの継続は、直接的な介入によっては停止されえない。
訳注 「undergoing a transformation, the consequences」とみなした。
0’39-1’11
Besides, it is going on in the profoundest silence. Evidently, we have to state, that language in everyday life appears as a vehicle understanding and will be used as such a vehicle. But, there are other relations to language than the common ones.
試訳1 さらに、このプロセスは最も深い沈黙の中で進行し続ける。明白に提示すべきことだが、日常生活における言語は、理解のための乗り物としてその姿を現し、乗り物のようなものとしてしばしば使用されるものだが、そうした共通(共有)物の関係とは異なる、言語との他なる関係がある。
1’13-1’49
Goethe calls these other relations the ‘deeper’ ones and says of language: “In normal life we make language work in a provisional way, because we are signify just superficial relations. As soon as we speak of deeper relationships, there comes up suddenly another language, that of the poetical.”
試訳1 ゲーテはこのような言語との関係を「深遠(無底)」なるものと呼び、言語についてこう語った。”通常の生活では私たちは言語を暫定的なかたちではたらかせるが、それは言語との表面的な関係だけを示しているからだ。言語のより深遠な関係性について話すなら、突然別の言語、詩的な言語が浮上(到来)することだろう。”
訳注 「deeper」を仏語で言う「abîme」「sans fond」(無底・深遠)と解釈して訳した。
「signify」は「signifying」の英訳ミスだろうか。
2’16-2’51
The decisive experience of my thinking and that means at the same time for western philosophy, the meditation on the history of western philosophy has shown me, that in the past one question did never apper; the question of being.
試訳1 私の思考の決定的な経験は、同時に西洋哲学にとっての決定的な経験を意味する。西洋哲学史への思索が私に対して姿を現すのである。その思索とは、過去においては決して到来しなかった一つの問いだ。つまり、存在の問いである。
試訳2 私の思考の決定的な経験は、同時に西洋哲学にとっても決定的な経験を意味し、その思索は私に、過去決して現れることがなかった、存在の問いを示したのだ。
2’53-3’14
And this question is relevant because we determine, in western thinking that man is in a relation to the being and that he exists by corresponding to the being.
試訳1 この問いは重要(妥当・連関的)だ。というのは、西洋的思考において私はこう規定している。人間は存在との関係のなかにあり、世人は存在と対応するようにして存在するのだ、と。
試訳2 (…)この問は、私が規定するところの、人間は存在との関係のうちにあり、そしてかれは存在と調和することにおいて存在するということと連関する。
(※ manの箇所はMenchenと言っており、世人と訳すのは誤りだと動画上で指摘されたため、訂正した)
3’14-3’16
Über die Aufgabe des Denkens 1964
試訳1 『[ハイデッガー全集13巻]思索の経験より』 1964
3’18-4’13
The task which is given to the thinking nowadays as I understand it is new in the sense that it requires a new method of thinking and this method can only be used in the direct dialogue between man and man and and can only be attained through a long exercise and through an exercise, as one might say seeing in thinking. That means: this way onf thinking can be performed, for the present, only by a few but can be then, mediated through the different educational spheres, communicated to others.
試訳1 いま思考に与えられたこの経験/使命(Aufgabe)は、思考が新たな方法を必要とし、その方法は人と人の間の直接対話においてのみ使用されうるという意味において新しいのだと私は理解している。で、そして、この新たな方法は長い試練を、試練を経てのみ獲得されるのであり、人はそれを思考における見(見ること・視覚...洞察?)だと言うだろう。このことが意味するのは、この思考の方法はいまではわずかな人によって遂行(上演)可能なだけだが、異なる教育的領域を通して思索されており、それを介してその人々(他者)の間でコミュニケート可能になっている。
試訳2 今日思考に与えられた使命とは、思考の新しい方法を必要とし、この方法が人と人との直接的な対話においてのみ使用されることができるという意味において、私が新しいと理解したものだ。(…)この思考方法は現在わずかな人間によって遂行されるのみであるが、異なった教育領域で媒介され、お互いがコミュニュケート可能なのだ。
訳注「task」は独語の「Aufgabe」の英訳だろうと推測した。ハイデガーの訳語としては「経験」が定着しているが、ベンヤミンの訳語では「使命」とされる(ex.「翻訳者の使命」)。0’08-0’38で出てきた英訳「undergoing」もまた、同じような意味合いの独語から英訳されたのだと思われる。
(※ 同様にmanの箇所を人に訳しなおした)
4’15-4’52
I'll give you an example. Today everybody is able to operate a radio or television set without knowing the laws of physics that make them work without knowing the methods which were used to find these laws - methods, which in their substantial contents - are understood today only by five or six Physicists.
試訳1 一つ例を出そう。今日ひとびとはラジオやテレビを操作可能だ。それらを作動させている物理法則を知らずに。物理法則を発見するためのもろもろの方法論を知らずに。(もろもろの方法論とは、その実質的な内容において、今日では五、六名の著名な物理学者にだけ理解可能なものとなっている)。
4’53-4’56
The same is valid for the task of thinking.
試訳1 同じことが思考の使命/経験にも言える。
4’58-5’01
Über Karl Marx, und die Weltveranderung 1969
試訳1 マルクスと世界の変化について 1969
5’01-5’33
The Question of the demand for a world change leads back to famous sentence by Karl Marx in the These on Feuerbach and I will, to be correct, read it from the original: The pihilosophers have only interpreted[underscored] the world, in various ways; the point it to change it.
試訳1 世界の変化を求める問いは、カール・マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』の有名な文章に通じている。ここで私が正確に原典を読もう。”哲学者たちは世界をさまざまに解釈(下線引き)してきただけだが、肝心なのは世界を変化させることだ。”
5’35-6’31
If we cite this sentence and if we follow this sentence, we disregard that a change of the world presupposes a change of the conception of the world, and that a conception of the world will be only obtained by a sufficient interpretation. That means, Marx relies on on a certain interpretation of the world to demand his change of the world. And therefore this sentence proves to be a non-founded sentence. It provokes the impression that is decisively spoken against philosophy while in the second part of the sentence unexpressed – the demand of a philosophy is presupposed.
試訳1 私たちがこの文章を引用し、この文章に従うならば、世界の変化は世界概念の変化を前提とすることを軽視し、十分な解釈こそが世界の概念化を獲得するだろうことを軽視することになる。すなわち、マルクスは世界の変化を求めてある種の世界解釈に依拠しているのであり、それゆえこの文章は根拠なき(無底の)ものであることが判明する。文章の後半部は無言のままに(一つの哲学の要求が前提されたかたちで)決定的に反哲学を主張する痕跡を差し出している。
6’32-6’34
Über Religion 1964
試訳1 宗教について 1964
6’37-7’23
I would say that men – for example in communism – have a religion, because they believe in science. They believe unconditionally in modern science. And this uncoditional believe in science, that means the confidence in the certainty of the results of science is a belief and is in a certain way – something that exceeds the existence of a single person, and is therefore a religion. And I would say: no man is without a religion and every man is in a certain manner transcending himself and that means: ver-rueckt.
試訳1 人々は(たとえば共産主義者も)宗教を手にしている。というのは彼らは科学を信じているからであり、無条件に近代科学を信じているからだ。そして科学へのこの無条件の信仰は、科学の結果の確かさへの信頼が一つの信仰であることを意味し、ただ一人の人間の存在を超える何かをある種の方法で信仰しているということを意味する。それゆえ、これは宗教なのだ。そして私はこう言おう、宗教無き人間はいないのであり、誰もが何らかの方法で自分を超越しているのだと。すなわち、気が狂っているのだ、と。